2月19日(日)礼拝説教全文
「安息日を聖別せよ」 出エジプト記34:18~35:3
皆さん、年の初めから、日々にキリストをしっかりと身に付けて歩んでいますか。
神である主は、モーセに初めの2枚の石板と同様の石板を用意させ、十戒を記させます。前回は、神ご自身が2枚の石板を切り出してご自身がその指で書かれた十戒でしたが(32:15~16)、今回はモーセが主の言われたように書き記します(:28)。
モーセは、40日40夜、パンも食べず、水も飲まず神である主の前で、主の語られる契約に基づいて、契約の言葉、十戒を書き記します。
神である主は、ご自身がどのようなお方であるかを宣言され、イスラエルの民との「契約」を再度語られます。先週は、「あなたには、私をおいてほかに神々があってはならない」「あなたは自分のため彫像を造ってはならない…それにひれ伏し、仕えてはならない」という徹底して神に従う内容でした。「妬む神」と言われる主のご性質の宣言は、「契約によって結ばれた」関係の最重要項目です。
第二として本日の箇所で、「契約」において主が言われるのは「安息日」と「祭り」です。(:18~20)
1、「祭り」
ユダヤの三大祭り 過越しの祭り 七週の祭り 仮庵の祭り 「年に三度、男子は皆、主なる神、イスラエルの神の前に出なければならない」(:23)
ユダヤ人にとって、大事なお祭りがあります。第一は「過越しの祭」(ペサハ)(除酵祭)です。
これは、「私は主、あなたの神。あなたをエジプトの地から導き出した者である」(20:2)十戒の冒頭の言葉にあるように、エジプト脱出の時を覚え、記念する祭りです。太陽暦で月を数えたので、現代では3月~4月にあたり、一週間行います。イスラエルの民がエジプトを脱出する時、種無し(除酵)のパン(マッツアー)を用意して、その夜のうちに急いで出たこと、又、神である主が初子を打たれたこと、小羊の血が家の入口の鴨居に塗られてその家は神の裁きが過ぎ越した(セーデル)こと(過越し)を特に覚えます。
又、小麦の刈り入れの初穂の時に「七週の祭り」を行います。過越しの祭りから数えて49日目、五旬節の祭りともいわれます。(:22)エジプト脱出後、49日目、神の山ホレブでモーセが「十戒」を受けたことを記念する祭りです。
又、年の変わり目に取り入れの祭りを行います。これは「仮庵の祭」と呼ばれ、太陽暦10月頃に行います。エジプト脱出後の、荒野でのテント生活を記念する祭りです。
イスラエルの民が行う「祭」がどれも、常に「出エジプト」を覚えるものであることがわかります。私が、私たちがどのようなところから(奴隷生活から)、どのようにして(過越しの出来事を通して)救い出されたか。神である主と私、私たちの関係を、祭りを行う度に思い起こし、覚えるのです。
私たちは過越しの祭り、七週の祭り、仮庵の祭りも行いませんが、キリスト教会は、クリスマス、イースター、ペンテコステを記念として行っています。クリスマス、イースター、ペンテコステは何を思い起こし、覚える祭りなのでしょうか。ユダヤの祭りの筆頭の祭りは過越しの祭りです。それは、キリスト教では「イエス・キリストの受難と復活」となります。
私たち全ての人が、死と滅びという鎖に繋がれた罪の奴隷生活から、イエス・キリストの生涯、十字架の贖い、復活、聖霊の傾注によって救い出されたことを覚える時です。クリスマスもイースターもペンテコステも、私たちが主イエス・キリストによって、その罪と死から解き放たれた事を記念する祭りなのです。
旧約聖書を学ぶことは、新約聖書を理解する上で、イエス・キリストを知る上でとても大事なことです。
2、「安息日」
「6日間働き、7日目には休まなければならない。耕す時も刈り入れの時も休まなければならない」(:21)
「7日目はあなたがたにとって主の聖なる、特別な安息日である。その日に仕事をする者はすべて死ななければならない」(35:2)
十戒の第4戒、「安息日を覚えて、これを聖別しなさい」(20:8~11)
神である主とイスラエルの民との「契約」の重要項目は「安息日の聖別」です。
祭りは年に三度ですが、安息日は週に一度です。
神である主と、イスラエルの民との関係は、この「契約」を守るか否かにかかっています。「契約」を破れば「契約解消」になっても文句は言えません。それどころか、厳密にいうと、この契約を破ると「死ななければならない」という罰則付きです。なんと厳しいものかとも思います。
イエスの生涯においても、この「安息日既定」に関しての当時の宗教的指導者たちとの衝突の出来事が繰り返されています。イエスと対立していた宗教的指導者のイエスへの批判のことばは、「安息日を破る者」でした。
「安息日」に関してイエスの言われている最も大事な箇所を見て、「安息日」とは何であるのかを今も私たちは、神の御心に従った中身のある安息日を持ちたいと願います。
マルコ2章27節です。「安息日は人のためにあるのであって、人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある」。これは「安息日」を真に理解する上で大事なイエスのことばです。
「安息日」は文字通り、貧しい者も、過酷な労働を強いられている立場にある者も、奴隷も家畜も、全てのものが休みを得る日です。6日間の労働を終えて、身体も心も、全身全霊休みを取る日です。人のために、全ての造られたもの(被造物)のために、神が定められた日です。
そして、安息日の主催者、私たちを緑の牧場、憩いの汀を用意し、招いてくださる、そのお方は主イエス・キリストです!
「安息日」は神の祝福と聖別の日です。(創世記2:3)私たちが神のみもとに集い、祝福と聖別を受ける日です。祝福は神が用意された全ての良きものを受け取る時です。聖別は、私、私たちが主のものであるという平安と喜びです。「我らは主のもの、主の民、その牧場の羊」であると告白することこそ、主の与える「安息」なのです。
「安息日」は守らなければならない掟という消極的な意味より、主が与えたもう何にも代えがたい祝福と聖別を受ける時であると知って下さい。それこそが、繰り返し言いますが「安息」なのです。
山で主と語り終えたモーセは2枚の石板を抱えて、下山します。不思議なことですが、山から降りてきたモーセの顔は光を帯びていました。民はそれを見て恐れます。モーセは山で主が語られたことばを再び民にことごとく語って聞かせ、命じます。モーセは宿営の外の会見の幕屋に入る時以外は、顔に覆いを掛けます。
太陽の光を浴び続けると、私たちは真っ黒になりますが、神の御光を浴び続けると光輝きます。
神である主との深い交わりは、私たちを輝かせます。
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