3月19日(日)礼拝説教全文

「油注ぎによる聖別」出エジプト記40:1~16  

皆さん、年の初めから、日々にキリストをしっかりと身に付けて歩んでいますか。

先週は出エジプト記36~39章から「会見の幕屋の建設(準備)の全ては完了した」(39:32)を読みました。

これまで「幕屋の建設」について礼拝で出エジプト記から長い期間に渡って読んできました。神である主が指示された幕屋の構造・祭司の祭服のデザインなどを細かく読み、また、祭具などをどのように用いるかについても読んできました。そして、主が指示された幕屋建設の詳細を軸にして、今私たちはいかにしてキリストの教会を建て上げ、又、神の宮である自分自身を建て上げたら良いのか、という視点を加えて読んできました。

「幕屋」はまさに神の臨在の場です。又、神の臨在の場である「幕屋」は一つ所に留まらず、民の移動と一緒に持ち運ばれていきます(:36~38)。世界中にあるキリストの教会(私達の勝田台教会も含めて)と、そして私たちも、「私は彼らの中に住む」と主が言われる神の臨在の場なのです。キリストの教会と、キリスト者である私達は、その内にいてくださる「神の臨在」によって、神である主の栄光が表されます。パウロは、「私たちはこの宝を、土の器の中に持っています」(第二コリント4:7)と語っています。

幕屋の建設(:1~8)

・幕屋の奥、至聖所に契約の箱と贖いの座を置き、聖所と至聖所を仕切る垂れ幕を掛けること

・聖所に机や供えのパン、祭具を運び入れ、燭台の灯をともすこと

・聖所に香をたく金の祭壇を設置し、内庭と聖所の仕切りの幕を掛けること

・焼き尽くすいけにえの祭壇を幕屋の入り口の前に据え付けること

・洗盤を幕屋と焼き尽くすいけにえの祭壇の間に置き、水を入れること

・幕屋を囲む内庭を設け、庭の入り口の門に、仕切りの幕を掛けること

油注ぎによる聖別(:9~16)

全てが完成したら、幕屋と全ての祭具、すべての物に、注ぎ油を注ぎ、聖別しなさい。

大祭司アロンと祭司であるアロンの子らも、水で洗い、祭服を着せ、油を注ぎ、聖別しなさい。

「モーセは、全て主が命じられたとおりに行った」(:16)

(幕屋の構造において、内庭には献げ物を携えて、イスラエルの民が入ることはできるが、聖所には祭司のみが、至聖所には大祭司のみが入ることが許されています。)

本日の説教の要点は、幕屋にも、全ての祭具にも、そこで仕える祭司にも、「油が注がれた」という内容です。油が注がれたのは、全てのものが聖別されるためです。

〇「聖別される」について

主の家も、全ての祭具も、又、レビ人(アロンとアロンの子たちも)も、世のもの、誰かのもの、自分のものではなく、主のもの(所有)として聖別される必要があり、事実主のものです。

ホーリネス、聖めとは、罪・汚れが聖められ、人格が成長し、罪・悪から離れ、聖い生活・主に喜ばれる生活・神を愛し人を愛する生活を生きるという一面がありますが、

別の角度から見ると、全てを献げ、「私の全ては主のものです」という全き献身を意味します。この側面は、成長というよりむしろ、自らの意志による決断と自覚の連続であると言えます。

ローマ人への手紙12章1節のみことばは、その意味で、とても大事なものです。「こういうわけで、きょうだいたち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたの理に適った礼拝です。」

礼拝とは、神である主の前に行き、ひれ伏し、「私をあなたに献げます。私はあなたのものです」と告白することです。そして、告白するだけでなく、その告白に従った日々を生きることです。

主はどのようにして私たちを聖別してくださるか

1.みことばによって聖められます

2.十字架の血潮によって聖められます

3.聖霊によって聖められます

4.時に人は苦難によって聖められます

礼拝で、聖書のみことばが語られるのは、神である主のことばによって、神のみこころを知り、そのみこころに従うように私たちが修正され、新しくされ、思いが正され、聖められるためです。「真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの言葉は真理です」(ヨハネ17:17)。「私が語った言葉によって、あなたがたはすでに清くなっている」(ヨハネ15:3)。

礼拝で、聖餐式が行われるのは、主イエス・キリストの十字架の贖いを覚え、その苦難、流された血潮によって、悔い改めをもって応答し、その罪が聖められるためです。「御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます」(第一ヨハネ1:7)

礼拝で、私たちは聖霊の満たしを求めます。賛美をもって、祈りをもって、信仰の告白をもって、主イエス・キリストの約束された聖霊を求めます。それは、キリストのもの(所有)、弟子、力ある証人として日々を生きる原動力、力の源を受け、そのお方を迎える為です。日々の歩みが主に喜ばれるものとして聖められます。

「しかし、主イエス・キリストの名と私たちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされたのです」(第一コリント6:11)。

時に私たちの人生にも、教会にも、又キリスト教の歴史の中にも嵐が打ち付けます。耐えられないと思わされるほどの大波もあります。

しかし、信仰者は、その火のような試練の中で、主を見上げ耐え忍び、不純物が取り除かれた純金のように練られ聖められます。「苦難をも誇りとしています。苦難が忍耐を生み、忍耐が品格を、品格が希望を生むことを知っているからです。この希望が失望に終わることはありません。私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」(ローマ5:3~5)。

「今しばらくの間、さまざまな試練に悩まなければならないかも知れませんが、あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊く、イエス・キリストが現れるときに、賞賛と栄光と誉れとをもたらすのです」(第一ペトロ1:6~7)。

私達はどこまでも自己中心の者です。常に自分があり、他者の意見に耳を傾けません。

どうすれば自分自身を愛するのと同じように隣人を愛することができるのでしょうか。

どうすれば、自己愛から他者へ目を向けることができるようになるのでしょうか。

「あなたがたを、神の前に献げなさい」

神である主を、主イエス・キリストを私たちの心の王座にお迎えする以外に、自己中心から解放される道はありません。注ぎ油の油は、聖霊です。聖霊を降り注いでいただき、神である主の所有としていただきましょう。一回のみの人生、又、主イエス・キリストに出会った人生に、この祝福を受け取り、神の臨在を持ち運び、神に喜ばれる、主の栄光が表される、光の中を進みましょう。

竹田広志's Ownd

千葉県八千代市勝田台7-27-11 電話 0474-84-5045 牧師 竹田広志

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