4月2日(日)礼拝説教全文
「十字架上の7つのことば」 ヨハネ19:25~30 受難週メッセージ
本日は棕櫚(なつめやし)の聖日、パームサンデーと呼ばれます。イエスが十字架に掛かられる一週間前、ロバの子に乗ってエルサレムに入城された日です。民衆は棕櫚の大きな葉を道に敷いて、イエスを盛大に迎えました。民衆が熱狂してイエスを迎えたこの日からの一週間を、(熱狂には似つかわしくない)受難週と言います。イエスは過越しの祭りに参加するために弟子たちと共にエルサレムへ行かれました。イエスが死を覚悟してエルサレムに行かれたことを聖書は伝えています。イエスの生涯を記した4つの福音書の記者は、それぞれに多くの紙面を使って、イエスの最後の一週間の出来事を記しています。
キリスト教会のシンボルである十字架が示しているように、イエス・キリストがこの地に来られた最大の使命は、十字架です。すべての人々の罪の身代わり、贖いとなって、十字架で生ける神の小羊となってご自分の命を献げる為にです。
4つの福音書に 十字架の記事がありますが、イエスが十字架の上で発した言葉は7つです。
マタイ、マルコに同じ言葉が一つ、ルカに三つ、ヨハネに三つで合計7つです。他にはありません。
本日の受難週の礼拝では、カルバリ山の十字架の上で、イエスが私たちの罪のために、苦しみと痛みの中で絞り出されるように語られた7つの言葉に、私達もこの朝、十字架の足元に座して耳を傾けたいと思います。
イエスの十字架の出来事は午前9時から午後3時までの6時間に及びます。
1、全ての人の為に 罪の赦しを執り成して下さるイエス
2、どんな罪ある者も赦し、救いを与えて下さるイエス
3、人の痛みを知って下さるイエス
4、父なる神に捨てられたイエス
5、渇いて下さったイエス
6、救いの道を成就されたイエス
7、全てを父なる神に委ねられたイエス
1、私達の罪の赦しの為に 十字架の上でとりなして下さったイエス
「父よ彼らをお赦しください。自分が何をしているのかわからないのです。」(ルカ23:34)
イエスと同様に十字架に掛けられた本来重罪人の一人が言った言葉は、人を呪い、神を呪い、自分の人生を呪ったものでした。しかし、イエスが十字架の上で最初に言われた言葉がこれであって、ルカだけがこれを記しています。この言葉は十字架の意味を最もはっきり表すものです。「彼ら」とは誰のことでしょうか。ローマの兵士でしょうか。イエスを訴えた当時の宗教的指導者たちでしょうか。「十字架にかけろ」と叫んだ民衆でしょうか。いいえ、私でありあなたなのです。
2、どのような罪人も悔い改めるなら、十字架の贖いのゆえに天国への道を与えて下さるイエス
「よく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園(パラダイス)にいる」(ルカ23:43)
イエスに向かって次々と述べられる証言
「この方は何も悪いことをしていない」(:41)イエスと共に十字架につけられたもう一人の犯罪人
「本当にこの人は正しい人であった」(:47) イエスの十字架を見張っていたローマの百卒長
「この男には何の罪も見つからない」(23:4)「罪はこの男には見つからなかった」(:14)「男は死刑に当たるようなことは何もしていない」(:15)「この男には死刑に当たる罪は何も見つからなかった」(:22) イエスを取り調べ、裁判を指揮していたポンテオ・ピラト
罪ある者は、罪ある者の罪を身代わりに負うことはできません。ただ、罪のないお方だけが、他者の罪を負うことができます。新約聖書は一貫して、イエスが罪なき完全なただ一人のお方であることを私たちに伝えています。誰かの為に身代わりになって死ぬことはできるかも知れない。しかし、罪人は罪ある者の罪を背負うことはできないのです。
7つの言葉のひとつは自分の罪を認めて悔い改めた犯罪人に向かって言われたものです。
カルバリ山の上には3本の十字架が立ちます。イエスの両側に磔にされたのは強盗であり犯罪人です。しかし生涯の最後にイエスの十字架の隣で、自らの罪を後悔し、イエスに「私を思い出してください」と言った男。彼には既に更生する機会もありません。しかし、イエスからこのお言葉をいただいた彼の心は、どのようなものだったでしょうか。
3、母として愛を注ぎ続けたマリアに慰めを与えられるイエス
「女よ、見なさい。あなたの子です」弟子ヨハネに「見なさい。あなたの母です。」(ヨハネ19:26~27)
7つの言葉の1つは母に向かってかけられたものです。
イエスの母マリアにとって、イエスの十字架の出来事の痛みは測り知ることが出来ません。
母マリアの痛みを知るイエス。ご自身の痛みの中にあっても、母の痛みを知るイエス。十字架の出来事でイエスと共に、心を裂いたのは母マリアであったでしょう。
4、私達の為に、私達の罪を背負って、神に捨てられて、呪われて下さったイエス
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」「わが神、わが神。なぜ私をお見捨てになったのですか。」(マタイ27:46)
「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」「わが神、わが神。なぜ私をお見捨てになったのですか。」(マルコ15:34)
これは詩篇22:1の言葉です。22篇は、詩人自身の罪故にではなく、肉体的苦痛と敵による迫害の中で、自分の祈りがまるで答えられない者のように悩んでいる言葉。神の沈黙と人々の嘲笑の中で歌われた歌です。
イエスは今まで、「父よ」と父なる神に呼びかけられましたが、ここでは「わが神」と祈られます。イエスが十字架で神に見捨てられたことがわかります。何ゆえに?全ての人の罪を背負い、私のあなたの罪を背負って捨てられてくださったのです。
5、私達を満たすために渇いて下さったイエス 人は神から離れていると渇きます。イエスが切り離されて、私達が接がれました。 肉体の渇きと共に、霊的な渇き
「(わたしは)渇く。」(ヨハネ19:28) 「力は素焼きのかけらのように乾ききり、舌は顎に張り付いた…」(詩篇22:13~19)
人々に渇くことのない水を与えるイエスが渇かれたのです。人の本来の渇きは、神によってしか満たされません。最初の苦い味の(没薬を混ぜた)ぶどう酒は受けられませんでしたが(痛みを緩和しないため)、最後の酸いぶどう酒は受けられました。渇いた喉では、これから大声で大事な言葉を宣言できません。
6、救いの道を 完全に成就されたイエス 勝利の宣言
「成し遂げられた」(ヨハネ19:30) *全てが終わった(口語訳)完了した(新改訳)
テテレスタイ(ギリシア語)= 成し遂げられた 清算された 完済した 手続きは完了した
それは完了し、今なお継続しているもの 何が完了したのか。あなたの罪の全ては清算された。償いは終わった。
7、すべてを神にゆだねられたイエス
「父よ、私の霊を御手に委ねます。」(ルカ23:46)
父なる神への全幅の信頼のことば 私の全てを父の手の中にお任せします。
神殿の幕が真二つに裂けた(マタイ27:51、マルコ15:38、ルカ23:45)これによって、神と私たちとの隔ての幕が切り落とされて、神と自由に交流・礼拝・祈りが可能になりました。
私たちは自分の人生の最後に、どのようなことばで終わりたいだろうか。
私たちも生涯の終わりにはこのように祈りのことばで閉じたい。
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