4月9日(日)イースター礼拝説教全文

「私は主を見ました」 ヨハネ20:1~18 イースターメッセージ

ハッピー・イースター!!イースターおめでとうございます。主イエスの復活を心から祝い、感謝します。

イースターは、イエス・キリストが私たちの罪の為に十字架で死に、三日目によみがえられたことを記念する日です。私たちは「我は信ず。罪の赦し、からだのよみがえり、とこしえの命を]と告白します。その根拠はイエスの十字架と復活の事実です。

本日はイースターと共に、召天者記念礼拝、そして、墓前集会を行います。今皆さんの前に召天された方々のお写真が並べられています。主にあって先に召された兄弟姉妹は、この信仰告白に込められている望みを抱いて召されていきました。そして、必ずその時が来ます。「合図の号令と、大天使の声と、神のラッパが鳴り響くと、イエスに望みを抱いて死んだ兄弟姉妹が、イエスと同様に死者の中から復活し、・・・そしていつまでも神と共に住み」(テサロニケ4:16~17)、天国の住人、御国の世継ぎとされます。

「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」(ルカ10:20)とイエスは弟子たちに言われましたが、本当に喜ぶべきことはそれです。天国の住民票に名前が記されているとは何と幸いなことでしょうか。そして、主が私たち一人一人の名を呼んで下さる時が来るのです。

神の山ホレブの燃える柴の中から「モーセ、モーセ」(出エジプト記3:4)と神はモーセの名を呼ばれました。モーセが神を知らなくとも、神は知っておられ、彼の名を呼んで下さいます。本日も召天者の名前を呼びます。私はおひとりおひとりがどのような方たちであるかは良くは知りませんが、名を呼ぶ神はご存じです。

(勝田台キリスト教会 召天者)

先週は受難週の礼拝でしたので、イエスの十字架の足元に導かれ、イエスが十字架上で言われた7つのことばを聞きました。本日はイースター礼拝です。ですから、私たちはイエスの収められた墓に赴き、空になった墓と、復活され、今も生きておられるイエスにお会いしたい。よみがえり、今も生きておられるイエスの力強い、確かな御臨在に触れたいと願っています。

「週の初めに、朝早く」(1)。4つの福音書が、十字架で息を引き取られたイエスが、新しい墓に収められ、三日目の日曜日の朝早い出来事を伝えています。私たちが日曜日に集まって礼拝するのは、主イエスがよみがえられたからです。よみがえられたイエスがご自身を私たちに顕してくださるからです。土曜日の安息日が日曜日に変更されることは、ユダヤ人にとってはあり得ない事です。旧約聖書に従うならば、私たちは土曜日を安息日とすべきでしょう。しかし、キリストはよみがえられたのです。世界の全ては新しくなりました。主イエスがよみがえられなければ、土曜日の安息日が日曜日に変更されることはあり得ません。聖日は、主イエスの日、主日となりました。

日曜日毎に、キリストのからだである教会へ、私たちはよみがえられた主イエスに会いに行くのです。

マグダラのマリアに現れる マタイ、マルコ、ルカによる福音書では、朝早くにイエスの墓に訪れた女性たちの名が記されています。マタイでは、七つの悪霊を追い出してもらったマグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母。マルコでは、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメ。ルカでは、マグダラのマリア、ヨハナ(ヘロデの家令クザの妻)、ヤコブの母マリア(ルカ)、ガリラヤからイエスに従ってきた女たち。いずれも筆頭にマグダラのマリアの名前があります。

イエスの十字架の足元にいた女性たちの名前にも彼女が入っています(ヨハネ19:25)。

とても興味深いのは、マタイ、マルコ、ルカは、いったいあの朝、イエスの墓を訪れた女性たちは誰だったのかをよく調査して書き記し、イエスの十字架の出来事の中で「遠くから見守っていた女性たち」の名前も記していることです。

ただ、ヨハネは、現実に自分の経験したこと、その時に耳にしたこと「目で見たもの、よく見て、手で触れたもの」(Ⅰヨハネ1:1)を記しています。彼は「イエスの十字架の足元にいたとき」について、自分と一緒にいたイエスの母マリアをはじめ、女性たちの名を記しています。

そして、彼は彼のヨハネの福音書で、週の初めの日の朝、イエスの墓をマグダラのマリアが訪れたと記しています。他の女性たちについては触れていません。

そこには、封印されて、ローマの兵卒が見張りをしていたはずの墓には誰もいなくて(マタイ)、墓石が取りのけてあるのを目撃します。

マグダラのマリアは、走って行ってシモン・ペトロとヨハネのところへ行き、知らせます。「誰かが主を墓から取り去りました。どこに置いたのか、分かりません!」。

ペトロとヨハネは走って墓へ向かいます。ヨハネの方が足が速かったので先に墓に到着し、身をかがめて中をのぞきます。イエスの置かれていた場所に、イエスの遺体を巻いていた亜麻布が置いてあるのを見ます。しかし、中に入らずにペトロが到着するのを待ちます。ペトロが到着し、彼は墓に入ります。同じく亜麻布が置いてあるのを見ます。もちろんイエスの遺体はありません。イエスの頭を包んでいた覆いは別の離れた場所に丸めてありました。ヨハネはペトロに続いて墓に入って来て、見て、確認します。それでもイエスが復活されたことを理解していませんでした。二人は家に戻ります。

ヨハネは自分が実際に体験した出来事を記しているのが良くわかります。

ペトロとヨハネは日曜日の朝、イエスの空の墓を見ます。マリアの言うように誰かがイエスの遺体を取り去ったのでしょうか。確かに墓の中にイエスの遺体はありませんでした。

見張りをしていた番兵を倒し、ローマの許可なしに開けてはならない封印を破って、重い墓石を転がして、誰かがイエスの遺体を持ち出したのでしょうか。

イエスの遺体を持ち出すために、わざわざ巻いていた布を時間をかけて解き外して持ち出したというのでしょうか。「亜麻布しかなかった。」(ルカ24:12)とありますが、二つところに置かれていた亜麻布は、イエスが亜麻布に巻かれておられる必要がなかったことを意味しています。

マグダラのマリアは墓の外で立って泣いています。墓の中にふたりの御使いが、一人はイエスの置かれていた頭の方に、ひとりは足の方に座っていました。「女よ、なぜ泣いているのか。」マリアはペトロとヨハネに告げた同じことを御使いに言います「誰かが私の主を取り去りました。どこに置いたのか、分かりません」。後ろを振り向くと、そこに誰かが立っています。「女よ、なぜ泣いているのか。誰を探しているのか。」マリアは園の番人だと思って、同じことを言います「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか、どうぞ、おっしゃってください。私があの方を引き取ります。」

マリアは、誰が主(イエス)のからだを取って行ったのか、どこへ置いたのか、の一点張りです。十字架で釘を打たれ、槍で刺し通されたイエスを三日前に見たのです。イエスが死者から復活された、という思いは微塵もありません。

完全に死んだ者が復活することは、誰にも信じられないのです。イエスの復活の出来事について、聖書は、それを聞いた人たちは「信じなかった」「信じなかった」「信じなかった」と念を押して記しています。彼らが信じない人々であるのは当然であり、私としてはむしろ安心します。しかし、それ故に、イエスがよみがえってご自身を弟子たちに顕された、というその事実を信じます。なぜなら、イエスがご自身を現わして下さらなければ、誰も信じられないからです。イエスはよみがえられました!

イエスは、彼女を名前で呼ばれます。「マリア」。イエスは弟子たちや、イエスに従ってきた女たちを名前で良く呼ばれていたのでしょう。名を呼ばれてマリアは、はっとしたことでしょう。それは、今までイエスが自分の名を呼んで下さった声であったからです。羊は羊飼いの声を知っています。

マリアは振り向いて、「ラボニ(ヘブライ語で先生)」と答えます。

「私に触れてはいけない。まだ父のもとへ上っていないのだから」とイエスは言われます。不思議な内容です。その真意ははかり知ることのできないものですが、私はこう思います。よみがえられたイエスはすぐ父のもとに上られるというのがその思いでしょう。しかし、残された弟子たちは、「信じない」弟子たち、聖書の言葉を理解していない弟子たちでしたから、「ご自分が生きていることを、数々の確かな証拠をもって」(使徒言行録1:3)示さなければなりませんでした。そのために、ご自身の愛によって40日にわたって彼らに現れ、神の国について話されたのだと思います。

マグダラのマリアは、弟子たちのところへ行って言います「私は主を見ました」。

竹田広志's Ownd

千葉県八千代市勝田台7-27-11 電話 0474-84-5045 牧師 竹田広志

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