4月16日(日)礼拝説教全文
「あなたがたに平和があるように」 ヨハネ20:19~23
聖書協会共同訳見出し イエス、弟子たちに現れる(20:19~23)
並行箇所:マタイ18:16~20、マルコ16:14~18、ルカ24:36~49
イエスは復活され、40日にわたって、ご自身が生きておられることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、彼らに現れ、神の国について話されました(使徒行伝1:3)。イエスが40日にもわたって弟子たちに現れた理由は、「彼らが(イエスがよみがえられたことを)信じなかった」からであり、「イエスが死者の中から必ず復活されることを記した聖書の言葉を理解していなかった」からです。先週もお話ししましたように、私たちにとっても死人が復活することは信じられない、理解できないことです。しかし、彼らがイエスの復活を信じたのは、イエスご自身が弟子たちに何度も現れ、よみがえられたことを示されたからに他なりません。信じなかった彼らが、イエスの復活を信じるだけでなく、命がけでイエスの復活を宣べ伝える殉教者へと変えられたことは、それこそとてつもない大きな出来事であり、それはイエスが事実よみがえられたからに他なりません。
イエスが私たちの罪の為に苦難を受け、十字架で死なれ、三日目によみがえられたことは、人には信じられないことなのです。信じられないことを悲観する必要はありません。イエスの弟子たちもそうだったのですから。
その日曜日、イエスの墓が空になったことは、当然ではありますが大きな騒動となります。イエスの弟子たちには、イエスの遺体を盗んだ嫌疑がかけられます。身の危険を感じて、彼らは恐れ、「自分たちのいる家の戸にはみな鍵をかけて」身を潜ませていました。墓でみ使いの知らせを聞いた女たちの話も、マグダラのマリヤが「私は主を見ました」という話も彼らは信じませんでした。人には信じられないことなのです。
家の戸には全て鍵がかけられていました。私たちが聖書を続けて読みますと、「そこへ、イエスが来て真ん中に立ち」とあります。どこからイエスは家の中に入って来られたのでしょうか。よみがえられたイエスは、弟子たちと共におられ、ご自身を弟子たちに現わして下さるお方です。
キリスト教の教理に「啓示」というものがあります。どのようにして人は神がおられることを知ることができますかという問いです。皆さんはどう答えられるでしょうか。その答えは、「神がご自身を現わして下さる時、人は神がおられることを知ることができる」です。それを「啓示」といいます。
神は自然(宇宙)を通して、歴史を通して、人を通してご自身を顕されています。
神は、聖書を通して、そして何よりも聖書に記されていて今も生きておられるキリストというお方を通して、私たちにご自身を現して下さるお方です。イエスを通して、私たちはまことの神を知ります。
「平和があるように」(:19、21)
イエスは弟子たちの真ん中に立ち、言われます。「あなたがたに平和・平安・シャロームがあるように」(:19)。ユダヤ人を恐れて隠れて怯えていた弟子たちに必要なのは、「平安」です。恐れる私たちに、苦しむ私たちに、不安な私たちに必要なのは、神の平安です。イエスの語られる言葉は、私たちの話す言葉とは違います。その言葉が事実となって起こります。神が光あれと言われた、すると光があるのです。イエスの言葉は、弟子たちの内に事実となって起こります。
それからイエスは、手と脇腹をお見せになります。数多くのよみがえられた証拠のひとつです。手の釘跡と、脇腹を槍で刺し通された跡です。弟子たちの前におられるのは、確かに十字架で死なれたイエスなのです。
家中の鍵を閉めて恐れていた弟子たちは、「主を見て喜んだ」(:20)とあります。
知ってください。イエスが私たちに与える平安はこの世の与えるものとは異なります。イエスの与える平安とは、よみがえられ、今も生きておられる「イエスが私たちと共におられる」という平安なのです。そしてイエスが与えてくださる喜びも同じで、世が与えるものとは異なります。どのような苦難も、行き詰まりも、迫害も、飢えも、裸も、危険も、剣も、この平和と喜びを奪うことはできません。「あなたがたに平和があるように」。この平和をしっかり受け取ってください。
経済的に豊かでも、貧しくても、健康であってもなくても、イエスが共におられる故に平安であること。大きな問題・悩みが襲ってきても、イエスが共におられる故に恐れない。そして生きるも死ぬも、よみがえられて、今も生きておられるイエスが共におられる故に平安であることを知ってください。
「あなたがたを遣わす」(:21)
「父なる神が私をこの世に遣わされたように、私もあなたがた(弟子たち)を遣わす」と言われます。
イエスの十字架と復活の証人として、今ここにいる弟子たちが、イエスによって全世界へと遣わされて行くのです。聖書の言葉通り、イエスの十字架による罪の赦しの福音、イエスの復活による永遠の命の福音が、復活されたイエスと出会った弟子たちによって、運ばれ、伝えられていきます。
この福音を、世界中の人々が待っています。あなたの家族が、あなたの友が待っています。
貧しさの中にある人々へ、苦しみの中、悩みの中にある人々へ、争いの中にある人々へ、虐げの中にある人々へ、なんと理不尽な!と思われる世界の中へ、そして罪に悩む人々の中へ。
イエスと出会った人々が、イエスによって遣わされていくのです。
「聖霊を受けなさい」(:22)
イエスは彼らに息を吹きかけて言われます。「聖霊を受けなさい」
遣わされていく彼らに、イエスはご自身の息を吹きかけられます。
人は困難・患難・試練・誘惑に脆いものです。
しかし、イエスの御霊、聖霊は、キリストの証人として力強く生きる新しい力を与えます。
聖霊は、神の働き人としての器としての聖別を与えます。
そして、聖霊は、信じる者に罪の赦しを大胆に宣言する権威を与えます。
教会の使命は、イエスの十字架の贖いを伝え、「イエスによる罪の赦しの宣言」をすることです。
この日曜日の朝、私たちもよみがえられたイエスに出会い、イエスの招きのことばを聞き、それに応える者でありたい。
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