4月23日(日)礼拝説教全文
ヨハネ20:24~31 「信じる者になりなさい」
聖書協会共同訳見出し イエスとトマス
聖書が私たちに語る主である神は、ご自身を私たちに顕して下さる神です。目には見えないお方ですが、私たちといつも共におられ、私たちに対する愛と憐れみをもって、時に目に見える程に力強くご自身を顕して下さいます。
使徒言行録1:3に「イエスは苦難を受けた後、ご自身が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、40日にわたって彼らに現れ、神の国について話された」とあります。イエスが40日にもわたって弟子たちに現れた理由は、先週も話しましたが、「彼らが信じなかった」からであり、「イエスが死者の中から必ず復活されることを記した聖書の言葉を理解していなかった」(20:9)からです。また、イエスが、三日目によみがえる、と何度も弟子たちに予告をされていたことも理解していなかったか、思い出せなかったか、信じていなかったからでもあります。死人が復活することは信じられない、理解できないことです。しかし、彼らがイエスの復活を信じたのは、復活されたイエスが、ご自身を何度も弟子たちに現して下さったからに他なりません。復活されたイエスを見て、復活を信じなかった彼らは、信じただけでなく、命がけで復活されたイエスを宣べ伝える宣教者・殉教者へと変えられました。イエスは、事実、よみがえられました。
そのような中で、ヨハネは、その最たる人、自分たちの仲間である十二弟子の一人、ディディモと呼ばれるトマス(ディディモ=双子の意味)について記しています。これは伝承ではありますが、このトマスは、復活のイエスと出会い、イエスの復活を信じた後に、南インドへ向かい、そこで宣教し、教会を建て上げ、その最後は迫害を受けて鋸で引かれて殉教したと伝えられています。南インドの都市、チェンナイ・サントメ地区には、サントメ聖堂があります。インドで宣教活動をした使徒トマスを祀る古い教会です。
1、私は決して信じない(:24~25)
トマスは、あのイエスが復活された日の夕方、弟子達と「一緒にいなかった。」とあります。イエスに出会った弟子たちは、「私たちは主を見た」(:25)と証言します。これは、マグダラのマリアの「私は主を見ました」(:18)という言葉と同じです。トマスがその日、どうして弟子たちと一緒にいなかったのかは分かりません。
空の墓でみ使いの知らせを受けた女たちも、マグダラのマリアも、そしてトマスと共に十二使徒に立てられた弟子たちも、「主がよみがえられました」「私は主を見た」と証言しています。トマスの周りの者たちは皆、「私は主を見た」と言うのです。驚きと喜びをもって彼らが語っている言葉をトマスはどのように聞いていたのでしょうか。
「そうか、皆がそう言うならば、私もイエスがよみがえられたと信じよう」と言ったのでしょうか。私たちであれば、その確信と輝きに満ちた証言に圧倒されて、同調してしまいそうです。そうでなくても、「そうだ」と言ってしまいそうです。自分を偽ってでも、その希望にすがってしまいやすい者たちです。
昔から、この個所は「疑い深いトマス」と呼ばれています。しかし、私は彼を弁護するのではありませんが、「自らを偽らないトマス」と言いたくなります。自分に正直なのです。信じてもいないのに、「信じる」と彼は口にすることができないのです。
トマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手を脇腹に入れなければ、私は決して信じない。」と答えます。その場にいた弟子たちも、ヨハネも含めて、つい少し前まではトマスと同じであったにもかかわらず、あきれたことでしょう。もしかしたら、3年間トマスと共に生活してきた彼らは、トマスの性格を知っていて、あのトマスらしい言葉だと思ったかも知れません。
2、8日の後に(:26)
「8日の後に」とは、イエスの復活の翌週の日曜日です。本日の聖書の記述も、日曜日の出来事であることを示しています。過ぎた1週間、復活されたイエスは弟子たちに現われていません。日曜日にとあります。どうしてイエスの顕現は日曜日なのか、と思わされます。
弟子たちは前と同じように、戸にはみな鍵をかけて家の中にいたとあります。しかしここには「ユダヤ人を恐れて」(:19)という言葉はありません。また、「トマスも一緒にいた」(:26)とあります。
不思議に思いますのは、トマスは「私は主を見た」と告げる弟子たちと一緒にいたということです。どのような思いで、トマスは他の弟子たちと1週間一緒にいたのでしょうか。私は思います。トマスは彼らの証言を信じたかったのでしょう。しかし、信じられなかったのです。
3、信じる者になりなさい(:26~29)
そして日曜日の出来事です。イエスの顕現の時です。彼らは集まって一緒にいました。ここでも「戸には鍵がかけてあったのに」とあります。イエスが来られて真ん中に立たれ、「あなたがたに平和(シャローム)があるように」と言われます。
イエスは、信じない(多くの人がそうです)トマスに言われます「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。あなたの手を伸ばして、私の脇腹に入れなさい」。トマスが1週間前に言っていた言葉に対する主のおことばです。
そして、大事な、とても大事なことをトマスに語り、勧めます「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」。あなたも今日から「信じる者になりなさい」というイエスの招きです。
トマスは「私の主、私の神よ」とイエスに向かって答えます。
私たちはイエスを目で見ることはできません。しかし、これからトマスに続くすべての人にイエスは言われます。「私を見たから信じたのか」。そうです。私たちはよみがえられた主を見なければ信じることができない、信仰のない者です。イエスは言われます「見ないで信じる人は、幸いである」。
私たちは、何故ヨハネが主の復活の出来事の記事に、このトマスの記事を書いたのかと思わされます。そうです。イエスを信じる信仰によってのみ、私たちは復活されたイエスにつながり、新しい、永遠の命を持つことができるからです。イエスを信じる者の幸いを伝えているのです。
結 聖書協会共同訳見出し 本書の目的(:30~31)
ヨハネが主イエスの生涯を書き記した目的は、
これを読むあなたが、イエスは神の子メシア(救い主)であることを信じるためです。
その信仰によって、イエスの名によって命を得るためです。
「罪の赦し、からだのよみがえり、永遠の命」を持つためです。
イエスが与えて下さる命とは、神と共に歩む新しい命であり、主イエスの命、永遠の命です。
イエスにつながっている命。すなわち、私たちをよみがえらせる力をもつ命です。
この朝も主イエスはあなたに言われます。「信じないものにならないで、信じる者になりなさい。」
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