4月30日(日)礼拝説教全文

「岸辺に立たれるイエス」 ヨハネ21:1~14 

聖書協会共同訳見出し イエス7人の弟子に現れる

ヨハネによる福音書は20章で終わっているような印象を受けます。「これらのことが書かれたのは」と、この書を書いた目的をまとめ、締めくくっているからです。しかし、一度筆を置いたけれども新しく書き足すように21章が続きます。

ヨハネは何を書き足そうとしたのでしょうか。20章のイエスの復活と顕現の場所はエルサレムでした。21章は場所がガリラヤに移ります。イエスと弟子たちは、過越しの祭りに参加する為にガリラヤからエルサレムに上りましたが、イエスの宣教の拠点はガリラヤ(のカペナウム)でした。イエスもイエスの弟子たちもガリラヤの出身です。ガリラヤではイエスを慕い、イエスに従っていた人も多かったでしょう。

イエスの復活を知らせたみ使いは、墓を訪れた女たちに、復活されたイエスは「あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる」と伝えています(マタイ28:7、10 マルコ16:7)。弟子たちもエルサレムからガリラヤに戻ります。

イエスの復活後の顕現の場所は、エルサレム、エマオ(エルサレムから徒歩2時間少し)、ガリラヤ、そして最後はベタニア(エルサレムから徒歩30~40分)(ルカ24:50)となります。

ティベリアス湖とは、ガリラヤ湖の別名です。

繰り返し言いますが、21章はガリラヤ湖畔での復活されたイエスの顕現です。ヨハネは、イエスがご自身を現してくださった出来事は三度目と記しています(:14)。

先週はトマスに対してでしたが、21章は焦点がペトロに当てられています。それはイエスとトマスとのエピソードと同様に、ヨハネにとって印象深く残った出来事であったからでしょう。そして、さらにそれは、イエスが、弟子たちのリーダー的存在であるペトロをもう一度立ち直らせ、再び召命を与えられる内容です。ヨハネはそれをそばで見ていました。

1、岸辺に立つイエス

イエスの十二弟子の中の4人は、ガリラヤ湖で漁をする漁師でした。ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネです。弟子たちはガリラヤでイエスとお目にかかれるのを待っています。ペトロは、ガリラヤ湖を見て、夜、そこに置いてある舟を見て、どのような心境であるのかわかりませせんが、漁に行くと言い出します。他の弟子たちも一緒に舟に乗り込みます。そして夜通し網を打ちますが、何も捕れません。夜が明けた頃、空腹と疲労困憊の中、彼らは岸に戻って来ます。いったい自分たちは何をしているのかという虚しさが心をふさいでいたでしょう。何とも表現できない空気が漂う、薄暗い明け方の湖での出来事です。

その時、岸辺にイエスが立っておられます。(弟子たちにはそこに誰が立っているのか分かりません。)

このタイミングです!神である主は、最もふさわしい、麗しいその時に、ご自身を現して下さいます。神のなされることは皆、時に適って美しいことを私たちは知ります。

私たちの人生においても、イエスは、最も素晴らしい 神の時 を与えてくださいます。

一生懸命労しても報われず、何を目的にしているのかもわからず、どこに向かっていくべきかも定まらず、何をしていいのかもわからず、あきらめて、降参して、打ちひしがれて、何も収穫がなく帰路に着くとき、そこにイエスは立っておられます。 

2、舟の右側に網を打ちなさい

イエスは約90M先(1ペキス=45センチ)の舟に向かって声を掛けられます。「子たちよ、何かおかずになる物は捕れたか」。かなり大きな声だったと想像します。彼らは「捕れません」と答えます。

イエスは大声で「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れるはずだ」と言われます。既に何度も打ち終えていた網ですが、彼らはもう一度、イエスの言われるように舟の右側に網を打ちます。

その打った網に、今まで何度も打った網とは違った大きな衝撃がかかります。おびただしい数の魚が網にかかり、網を引き揚げることができませんでした。人にはできないが神にはできます。

これはペトロにとっても、他の弟子たちにとっても忘れることのできない出来事です。かつて彼らが漁師であった時に、夜通し働いて魚が一匹も捕れなかった日、イエスに言われてもう一度舟を出し、イエスの言われるとおりに網を打った時と同じことが、今、再び起こっているのです。ペトロに「あなたは人間をとる漁師になる」(ルカ5:10)と言われて彼を召し、弟子にした時の出来事なのです。あの時、ペトロはイエスの偉大さに恐れひれ伏し、全てを捨ててイエスに従ったのでした。(*是非ルカ5:1~11を読んでください)

こんな言葉は少し不遜かも知れませんが、イエスはユーモアがあり、粋な演出をされます。

岸辺に立っておられる人は、イエス以外の誰でもありません。ヨハネはペトロに「あれは主だ!」と言います。居ても立っても居られず、ペトロは裸だったので、上着をまとって湖に飛び込み、イエスの許へ泳ぎます。イエスの空になった墓の知らせを聞いて、一目散に走りだした彼です。舟も魚も彼の頭にはありません。ペトロらしいといえばそうでしょう。

ペトロがずぶ濡れでイエスのおられる岸に到着し、後から舟が魚のかかった網を引きながら岸に戻ります。

3、朝食を用意して迎えるイエス

彼らが陸地に上がると、そこに炭火がおこしてありました。その上に魚が既に乗せてあり、パンも用意されていました。イエスが弟子たちの為に用意されたものです。

これが、私たちが信じ、信頼する、私たちの主、今もよみがえり生きておられるイエスです。

私たちは、ルカ12章にある「主人がしもべに給仕する」イエスのたとえや、最後の晩餐の席でイエスが弟子たちの足を洗われたことを思い起こします。イエスが「私が来たのは仕えられるためにではなく、仕えるために来た」(マタイ20:28)と言われている通りです。イエスはご自身について「私は柔和で心のへりくだった者だから、私の軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に安らぎが得られる」(マタイ11:29)と言われます。とかく、上に立つ人、権力を持つ人は、力をもって人を従わせようとしますが、私たちが従う神、主は違います。

イエスはご自身が用意されたものと共に、彼らが引き揚げた(と言ってもイエスが捕ったようなものですが)「今捕った魚を何匹か持って来なさい」と言われます。引き揚げた網の中に入っていた魚の数は、大きな魚153匹でした。幻ではありません。

弟子たちはイエスと食事を共にします。イエスは、いつものようにパンを取り、弟子たちに与え、魚を取り、弟子たちに与えられます。誰も「あなたはどなたですか」と尋ねる必要はありません。

イエス以外の誰でもありません。

主はよみがえられました。

今日も主は、私たちが日々の生活の中で重荷を負い、疲れ、渇いている者であることをご存じで、私達を招いて、豊かな糧を用意し、与えて下さいます。炭火をおこして、岸辺に立っておられるイエスに目を向けましょう。

フランスの詩人ユーゴーは「人生最大の幸福は、自分自身の如何に かかわらず、愛されているという確信である。」と言いました。

主イエス・キリストはあなたを愛しておられ、今日もご自身の許に招いておられます。

竹田広志's Ownd

千葉県八千代市勝田台7-27-11 電話 0474-84-5045 牧師 竹田広志

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