5月7日(日)礼拝説教全文
「聖霊に導かれ、聖霊と共に生きる」 ヨハネ14:15~24
「私は父にお願いしよう。父はもうひとりの弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにして下さる」(ヨハネ14:16)
2023年度の日本ホーリネス教団の方針は「聖霊に導かれ、聖霊と共に生きる」です。聖霊というお方が私たちを導き、聖霊というお方と共に私たちは生きるというテーマです。
1、神は霊であり、私たちも霊的な存在です。
聖霊は神です。父、御子イエス・キリスト、聖霊は、三位一体の神であり、それぞれに別の人格(位格)を持っておられるお方です。神が三者おられるのではなく、おひとりのお方です。三にして一のお方。どうして
3人(者)の神と言わずに、おひとりのお方だと告白するのでしょうか。聖書の中で、イエスが教えて下さっているからです。父と子はひとつ、子と御霊はひとつであると。これは、私たちの目に見えるものを数える世界では理解できない教えですが、神である主は目に見えない霊的なお方です。私たちは、ただ、聖書の教え、イエスの教えを信じ、神というお方を知ります。神が人の知識や理解を超えておられることに私は感謝します。
三位一体を、どうしたら子供にも分かるように説明できるかと考えたことがあります。他にも良い説明があるかも知れませんが、このように説明もできるかと思います。「それは三つ葉のクローバーのようなものです」と。三枚の葉はあるけれど一つのクローバーです。そしてこの葉は命でつながっています。私たちの神は「交わりの神」です。父、御子、御霊には、深い深い霊的な交わりがあります。それを「愛」とも言います。そして畏れ多いことに、神は人を、ご自身との深い交わりの中に入る霊的な存在としてお造りになられたということです。間違えてはなりません。人が神になるのではありません。神との深い交わりをする、神への応答をする霊的存在、神のかたちに似せて造られ、神の息(霊)を吹き込まれた者、それが、聖書の教える私たち、人なのです。
神は霊的なお方です。「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真実をもって礼拝しなければならない。」(ヨハネ4:24)
人・私たちは自分が霊的な存在であることを、聖書の教えから知りましょう。
霊的とか霊は、幽霊のようなという意味ではありません。人は全てを創造された神である主と深い関わりをもって交わり、神の御心、戒め、教えに応答することのできる能力を持っていることを意味します。
創世記の中で語られる、神の被造物としての人の特異性は、1章では、「人は神のかたちに 創造された」、2章では、「ちりで人を形づくり、その鼻に息を吹き込まれた」とあります。
「神のかたち」(ヘブル語=צֶלֶם ツェレム、ギリシア語=εικων エイコーン)とは、いろんな神学的な説明がありますが、神と深く交わり、応答する能力であり、霊的(目に見えない)な存在である神と霊的な存在として交わる存在と言えます。
「息(ヘブル語=רוּחַ ルアハ、ギリシア語=πνεῦμα プニューマ」とは、神の息、風、霊が人の鼻に吹き込まれ、人は命あるものとなった、非常に神と近しい存在であることがわかります。
そして人はアダム(אדם) アダマー、土という意味ですが、ギリシア語ではアンスローポス(άνθρωπος)、「上を見上げる者」を意味しています。
神は目に見えない霊的なお方です。
そのお方が目に見える形をもって来られたのが、私たちの主イエス・キリストです。
2、助け主(弁護者)なる聖霊
この聖書の箇所は、イエスの最後の晩餐の席での告別説教となっています。イエスは弟子たちと3年間寝食を共にし、ご自身を示し、教えて来られましたが、今弟子たちに語られる最後のメッセージです。(ヨハネ14章~16章)
イエスは、先ず弟子たちの足を洗われます。
そして、新しい戒めを与えられます。あなたがたは私がしたことを見たではないか。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがも互いに愛し合いなさい」と語られます。
「わたしは道であり、真理であり、命である。誰でも私を通してでなければ父のみもとへ行くことはできない。」
「わたしの名によって祈りなさい。」イエスの弟子たちに対する教えの総括です。
そして、イエスご自身は目に見える人として弟子たちのもとを去られますが、他に、もうひとりの別の「助け主」なる聖霊が父から遣わされる(14:16、14:26)、と弟子たちに約束されます。弟子たちと共におられた目に目えるイエスに代わるお方です。
「弁護者」(ギリシア語=Παρακλητος パラクレイトス)。直訳的には、援助の為に傍らに呼ばれた者、とりなしてくれる者を意味します。法的な意味合いでは弁護者。これまでの文語訳、口語訳、新改訳では、「助け主」と訳されてきました。長く教会生活を送って来られた人には、「助け主」がしっくりくるかも知れません。
目に見える人となって来られたイエスは、いつまでも弟子たちと今ある形では共にいることはできませんが、聖霊は、いつまでもあなたがたと共におられるお方です。弟子たちとも、今後イエスに従うすべての人々とも、共におられるお方です。
① 聖霊は、イエスの臨在を指し示すお方です。
このお方は、真理(イエス)の御霊です。
「見えないけれど、知っています。」どのようにして知るのか。霊的な交わりを通してです。知るとは、人格的、愛の交わりを意味します。事実、私たちの傍らに、私たちの内に聖霊がいてくださるから知っているのです。 これがパラクレイトスの言葉の顕すものです。
イエスは「わたしを見なくなるが、見ます。」と言われます。どのようにして見えないイエスを見るのか。霊的な交わりを通してです。聖霊は、誰よりもよみがえられたイエスが生きておられること、私たちと共におられること、内におられることを経験させ、教えてくださいます。
父なる神はイエスを遣わし、聖霊を受ける者はイエスを知り、イエスを知る者は父なる神を知ります。なぜなら、私たちの神である主は、三にして唯一のお方だからです。
どのようにして私たちはイエスがよみがえられ、今も生きておられて、私たちと共に、私たちの内にいてくださることを知るのでしょうか。聖霊によらなければ、誰も知ることはできません。聖霊を求めましょう。そして、聖霊の満たしを受けましょう。
② 聖霊は、みことばの真理を開くお方です。
助け主なる聖霊は、すべてのことを教え、イエスが話されたことを思い起こさせます。(14:26)
聖霊は、聖書のことば、その真理を悟らせる力を与えます。
私たちはみことばを思い起こす経験があります。聖霊がそうされるのです。
みことばが開かれて光を放つ経験があります。聖霊がみことばの真理を悟らせるのです。
そして、みことばに生きる(従う)力を与えてくださいます。
神に従うとは、神のことばに従うことです。
* 私はメッセージの準備の時に感じるものがあります。みことばを思い起こさせる聖霊の働きです。
私は牧師として働くことによって、信仰が支えられている最も小さい者です。
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