6月11日(日)礼拝説教全文
「神の子となる権能を受けよ」 ヨハネ1:1~18
今年私たちは4月の受難週、イースター、そして復活されたイエスの顕現について、ヨハネ19章~21章から礼拝で共に学んで来ました。最初に戻る形にはなりますが、本日からヨハネによる福音書を礼拝で読んでいきたいと考えています。
著者ヨハネについては、何度かお話ししてきました。既に私たちは礼拝で、ヨハネの手紙第一、第二、第三を読んでいます。
彼はイエスの十二使徒の一人で、弟子になる以前はガリラヤ湖で漁をする網元の漁師でした。彼はいつもイエスの傍近くに居て、イエスが十字架の上で亡くなられた時にもそのすぐそばにいた人です。ある聖書の箇所では、彼はイエスに「雷の子」(すぐにかっとなる人)と呼ばれています。他の使徒たちが殉教の死を遂げる中、老年まで生き残り、キリストにある兄弟姉妹を励ました人です。ヨハネによる福音書、ヨハネの第一、第二、第三の手紙、そして黙示録を記しています。
これからヨハネによる福音書を読んでいく中で、私達が特に心に留めたいことは、ヨハネによる福音書は、イエスを最も近くで目撃した彼自身の生のレポートであるということです。マタイ(自分の体験も含む)、マルコ、ルカは多くの人々の証言を元に書かれたものです。
ヨハネによる福音書をこれから読む中で、鍵となる聖句を紹介したいと思います。イエスの言葉、「私を見た者は、父(父なる神)を見たのだ。」(ヨハネ14:9)です。私達は目に見えないまことの神を、どのように詳しく知ることができるでしょうか。神はどのようなお方なのでしょうか。旧約聖書を通して「創造主なる神」がどのようなお方であるかは、多くの旧約の聖徒たちと神との関わりの中でおぼろげに知ることはできます。しかし、私達は、神を見える形で示されたお方を知っています。それが、イエス・キリストです。「人となられた神」、その示す意味は、目に見えない神ご自身を目に見える人として私達に現わされ、私達の間に住まわれた、というものです。
「いまだかつて、神を見た者はいない。父の懐にいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(1:18)
イエスを信じるということは、神を信じるということです。ヨハネは「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には、神の子となる権能を与えた」(「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった」新改訳)(1:12)
1、イエスの神性(先在性) (:1~4)
ヨハネによる福音書の、イエスの生涯の出だしは、「初めに言があった」です。言に葉がついていないのは、言(λόγος ロゴス)が単なる言葉の意味でないことを区別する為に日本語翻訳者が工夫したものです。ヨハネはイエスの生涯を書こうとしています。「言」とはイエスのことです。イエスが神である。神の御子であることをこのように書き出しています。「言」をイエスに読み替えると、イエスが元々どの様なお方であるのかがわかります。
イエスは天地創造の初めから神と共におられ、人々に命を与え、人々に光を照らすお方だと証言します。森野善右衛門のヨハネによる福音書の講解説教集では、ヨハネによる福音書のテーマを「命」と「光」と書いています。
2、バプテスマのヨハネについて(:6~9、15)
洗礼者ヨハネ(バプテスマのヨハネ)について触れています。次回、1:19~34に、洗礼者ヨハネが証しした内容が詳しく記されています。福音書の著者ヨハネはイエスの弟子になる前は、バプテスマのヨハネの弟子でした(1:35)。バプテスマのヨハネは光ではなく、光について証しする為に神から遣わされた者だ、とヨハネは記します。
15節では、バプテスマのヨハネが「私の後から来られるお方は、私にまさっている。私よりも先におられたからである」と大声で証言した、と記されています。バプテスマのヨハネは実際の年齢はイエスより半年くらい前に生まれた者なので、イエスが年長者だと言ったのではないことは明らかです。全ての者にまさって先におられたお方であるという意味です。
3、人となられた神
「言の内に成ったものは、命であった。この命は人の光であった」。「人の光」「まことの光」の光とは、私達の人生におけるあらゆる暗闇を照らす光、先行きの見えない暗闇の中を導く光、活発な生命力を与える命の光です。外から照らされる一時的な光ではなく、内に持つ命の光です。
まことの光として、イエスは世に来て、すべての人を照らし(:9)、「言」は肉となって、人々の間に宿り(住まわれ)、私達はその栄光を見た(:14)。しかし、イスラエルの民はイエスを受け入れなかったと記されています(:10,11)。事実イスラエルの民がイエスを十字架に架けます。私達の命であり、私達を照らす光である神の御子イエスを、彼らは受け入れなかったとは、なんという悲劇でしょう。
「しかし」!(:12)とヨハネは続けます。「言(イエス)は、自分を受け入れた人々、その名を信じる人々には、神の子となる権能を与えた」と。そうです!イエスを信じ受け入れる者にはどんなにか大きな神の祝福があることでしょう。
イエスを信じ、あなたの人生に受け入れなさい。そうすれば神の子となる権能が与えられるのです。(神の子となる特権と力)
4、恵みと真理に満ちていた
ヨハネは、イエスとモーセを比較しています。
モーセを通して律法が与えられました。しかし、神の独り子である神、イエス、このお方を通して、満ち溢れる恵みの上に恵みを、そして真理が私たちに与えられます。
文字である神の律法・戒め・掟を守って生きることも確かに素晴らしいことです。しかし、恵みの上に恵みを頂いて真理に満たされる生き方こそ、主イエス・キリストが私達に与えてくださる、新しい生き方なのです。
「いまだかつて神を見た者はいない。父の懐にいる独り子である神。この方が神を示されたのである」(1:18)
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