6月18日(日)礼拝説教全文
「世の罪を取り除く神の小羊」 ヨハネ1:19~34 -バプテスマのヨハネの証言-
序 最後の預言者(メシア到来を告げた)バプテスマのヨハネ
イエスが民衆の前で、ご自身が旧約聖書に預言されているキリスト(メシア)であることを示された3年間を「公生涯」と言います。4人の記者(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)がイエスの生涯について書いています。4つの福音書は共に、イエスの公生涯のスタートとして「バプテスマのヨハネ」のことを記しています。彼は、イエスと同時代に生きて、イエスが公の場に来られる直前にイエスの為に舞台を用意した人です。ただし、先週もお話ししましたように、彼は「光」ではなく「荒れ野で叫ぶ者の声」です。彼は偉大な預言者ではありますが、彼自身について語ることよりも、彼がどのように、イエスの道を備え、イエスを証言したかということの方が大切です。
今日、私達が目を向けるのはバプテスマのヨハネが指し示したイエスについてです。
旧約聖書には、イザヤからマラキに至るまで預言者たちが書いた書(大預言書・小預言書)があります。究極的には彼らの預言はメシアについての預言です。すなわち、預言の成就者イエスを指し示しています。もっと大きな枠で言いますと、旧約聖書全体がメシア預言であり、新約聖書はその成就と言えます。旧約聖書の預言者たちも、イエスが来られる舞台を用意し人たちであり、そして、メシアが来られる最後のトリを務めた預言者がバプテスマのヨハネであると言えます。
律法と預言者(たち)の時代は、バプテスマのヨハネまでであり、今はイエスによる神の支配(神の国)が到来しています。律法は悪・罪に対して警告し、罪の自覚、悔い改めを与えます。しかし、イエスによる神の支配は、罪から人を救い、悪に勝つ力を与えます。「律法はモーセを通して与えられ、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。」(:17)
* バプテスマのヨハネの出生はルカ1~2章に詳しく書かれています。老年の祭司夫妻、ザカリヤとエリサベトの子供です。彼の誕生については、イエスと同じようにみ使いが告知しています。ヨハネ(「主は恵み深い」の意味)はナジル人の誓願(主のものとしての聖別)を立てた人で、エッセネ派に属して(禁欲生活を送り、強い酒を飲まない人々)、クムラン教団(沐浴で身を清める集団)に属していたと言われています。当時の宗教的指導者サドカイ人やパリサイ人に対して痛烈な批判をしています(マタイ3:7~10)。荒野で、ヨルダン川で、罪の悔い改めを説き、悔い改める者に対して水でバプテスマ(洗礼・沐浴)を授けていました。
1、バプテスマのヨハネの自己理解(:19~24)
「さて、ヨハネの証しはこうである」(:19)
(自分については、)私はキリスト(救い主)ではない。エリヤではない。旧約に預言されている偉大な預言者でもない。では誰か。預言者イザヤの言う「主の道をまっすぐにする者」「荒れ野で叫ぶ者の声」(イザヤ40:3)だと言います。神の器。神の使命に徹した人、自分に与えられた役割をしっかりと受け止めていた人です。(どのように人々から偉大な預言者と呼ばれても、自分自身が何ものであるかを自覚していた人)
* 人は偉くなり、名声を得ると変わってしまい易い者である。ややもすると、自分が特別な存在であると思い込みやすく、傲慢に陥りやすい。しかし、バプテスマのヨハネは「荒野で呼ばわる者の声」に徹した人です。声はやがて消えて行きます。事実、最後には人々はヨハネのもとを去り、イエスのもとに集まるようになります。彼はそれを喜びとしています。バプテスマのヨハネの真の偉大さは、他の何かではなく、このことにあるのかも知れません。自らを虚しくして、イエスを讃えた人。イエスと共通するのは、イエスは、ご自身を虚しくして、十字架の死に至るまで従順であられたお方です。
2、ヨハネの証言(:6~8、15、26~27)
メシアについて証言するヨハネにとって、そして最後の預言者としての彼の最も大事な勤めは、イエスはどのようなお方であるかを的確に民衆に示すことです。
私の後から来られるお方は、偉大なお方。
私の後から来られるお方は、私よりも先におられたお方(はじめから神と共におられたお方)(:15)
力あるお方(私にまさる…比べることのできない程に)(:15、30)
そのお方の履物のひもを解く値打ちもない自分。(:27)
水で洗うのではなく、聖霊によってバプテスマを授けるお方。(:33)
この方こそ神の子であられる。(:34)
3、「見よ、世の罪を取り除く、神の小羊」(:29、36)
彼(バプテスマのヨハネ)が神の霊に満ちた、霊的な洞察力を持つ人であることがわかります。
イエスを指差し、「私よりも力ある偉大なお方」、「水ではなく聖霊によって洗礼を授けるお方」、「神の子」、どれもイエスを示す大事な証言です。
しかし特にこの朝、私達が注目するヨハネのイエスに向けての証言は、
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(29)です。
「水や動物の血は、私達の罪を取り除くことはできません。
悔い改めても、悔い改めても、洗っても、洗っても、私達は自らの内側にある罪深さに打ちひしがれるのみです。しかし、このお方は、私達の罪を取り除く力ある神です。
神の小羊、神の御子イエスの血、十字架の贖いが、私達の罪を取り除き、聖めるのです!」
出エジプトの過越しの出来事(出エジプト12章)、多くの動物の血による罪の赦しを求める儀礼(レビ5章)の歴史を経験していた彼らにとって、神の御子イエスの血が自分達の罪を聖めるということが真実と知るなら、どれほどに大きな恵みとなることでしょう。
罪の赦しには、命(血)という代価が必要です。
力強い奇跡の出来事が、私たちを罪と死から解放するのではありません。神の小羊、御子イエスの血が、全ての人を罪から解放するのです!
人間の闇、死の原因である罪、内側の汚れ、犯してしまった咎、あなたの全ての罪を取り除くことのできるお方は、私達の罪の贖いとなって十字架にかかってくださった、神の小羊、イエスだけです。
私の罪の身代わりに贖いの十字架を背負い、ゴルゴダの道を歩まれたイエスを今日も仰ぎます。イエスご自身の命という代価を払い、苦しみを受けてくださって、私たちのために神の御前に罪の赦しを与えて下さるイエスの姿を見上げます。
イエスは、あなたを愛しあなたを救うために、世の罪、あなたの罪を取り除くためにこの世に来られました。
「見よ、世の(わたしの)罪を取り除く神の小羊だ」(:30)
十字架で私達の罪を取り除き、光と命を与えて下さったイエスを見上げましょう。
このお方に、感謝とほまれをささげましょう。
わたしの救い主イエス・キリストに!
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