6月25日(日)礼拝説教全文

「私たちはメシヤ(救主)に出会った」 ヨハネ1:35~51  ①~④証言 a~c招き

私達は人と出会って、見て(その人の風貌や行いを見て)、聞いて(自分も話して)、その人がどんな人であるかを知っていきます。その表情・言葉使い・トーンなど、行動(何を行い)と言葉(何を話したか)を通してその人を知ります。

私たちは様々な人と出会い、その人格に触れ、時には学び、時には教え、影響され、影響して生きています。古代哲学者アリストテレスは、「人間は社会的動物である」、ユダヤ人哲学者マルチン・ブーバーは「人生は人との出会いによって決まる」と言いました。

私達の人との出会いについて考えると、数十億の人間の中で、この時代の中で、私たちはある特定の人たちと出会います。どの国に生まれて、どんな家庭で育ち(人が決める事のできないものもありますが)、どんな教育を受けて、どんな道を進むのか。限られた時間の中で、私たちはその出会いの重要性をあまり深く考えようとはしません。

出会いは良いことばかりでもありません。例えば、この親でなければ、この国にこの家にうまれなければ、この人に出会わなければ、この本を読まなければ、この映画を観なければ、このような出来事に巻き込まれていなければ、等と、深い悩みの中に陥るとき、人との出会いに限らず、その出会いの不運さを嘆いたりするものです。しかし、私達の人生には、なくてはならぬ良い出会いというものがあります。その人を決定づけるような貴重な出会いがあります。実は、そんな苦悩と求道の中にあって、私たちは真の神との出会いを経験します。(ナタナエルもその一人です)

今日聖書に出てくるのは、イエスに出会い、イエスに従った人達です。

イエスに出会い、イエスと向き合い、そのお方を知って、彼らはイエスをメシア(キリスト)であると認め、弟子となり、従っていくことが書かれています。

人生でイエスと出会うこと、主イエスを知ることの重大さ。素晴らしさ、豊かさ、大きな恵みがあります。私は今朝、あなたの人生でイエスと出会うことが、最も大きな素晴らしい出会いであると伝えたい。

1、 バプテスマのヨハネのふたりの弟子達 (:35~39)

先週は「①見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(:36)バプテスマのヨハネによるイエスについての証言を読みました。バプテスマのヨハネの二人の弟子はそれを聞いてイエスについて行ったとあります。一人はアンデレ(シモン・ペトロの弟)で、もうひとりはこのヨハネによる福音書の著者であるヨハネです。二人は師であるバプテスマのヨハネのもとを離れて、イエスについて行きます。

この二人はガリラヤ湖で漁をしていた漁師ですが、年齢も近く友人であったかも知れません。

イエスはご自分に付いて来る二人に、声をかけます「何を求めているのか」。彼らは答えます「ラビ(先生)どこにお泊りですか」。実は、あなたとお話をしたいのです。交わりを持ちたいのです。お話を聞きたいのです。私達の師バプテスマのヨハネのところから来たのです。いずれも、「イエスよ、あなたが誰であるかを知りたいのです」という意味です。

イエスは答えられます「来なさい(COME!)そうすれば分かるa」(:39)。イエスの招きの言葉です。

「来なさい、そうすれば分かります」イエスに求めてみなさい。祈ってみなさい。聞いてごらんなさい。話してみなさい。…そうすればわかります。求めなさい、与えられます。探しなさい、見出します。叩きなさい、開かれます。イエスに求めなさい!

二人は午後4時ごろ(著者ヨハネの実体験)、イエスの宿泊している場所を訪れ、その日はイエスとどんな話をしたのかは記されていませんが、翌朝まで泊ったとあります。

膝を突き合わせてイエスと話し、イエスに聞きました。どんなに驚くほどの麗しい時間であったでしょう。師であるバプテスマのヨハネとまた違ったものを感じただろうと思われます。

2、 アンデレ、兄のペテロをイエスの許に連れてくる(:40~42)

アンデレは翌朝、兄のペトロに会って、彼に言います「②私たちはメシア(キリスト)に出会った」…アンデレの証言(:41)。彼らの師であるバプテスマのヨハネの証言を彼らは確かめに行ったのだと思います。そして師であるバプテスマのヨハネの言う様に、「彼はメシア(救い主)だ」と、その交わりを通してイエスを知るのです。そして、彼は兄ペトロをイエスのもとに連れて行きます。

シモン・ペトロ(ケファ=「岩」の意味)の「シモン」は元々の彼の名前で、「ペトロ」は後にイエスが彼をそのように呼ばれた名前です。彼はやがてイエスの十二弟子のリーダーとなります。アンデレの兄がペトロ、ヨハネの兄はヤコブですが、この4人は漁師で、二組の兄弟であり、イエスの十二弟子の中に数えられました。

* 昔教会でアンデレ活動という働きをしたことがあります。宣教とは、イエスのもとに人を連れて行くことです。一人が一人に、そして家族への宣教です。アンデレ表というものを作って、名前を書いて、毎日祈って、教会の特別集会に誘った経験があります。また、宣教のためにグループで、地域の人々に参加を呼びかけ共に料理、洋裁、手芸、茶道、野外自然・野鳥観察・行楽等の活動を行ないました。

3、 フィリポを召される(:43~44)

その翌日、イエスはガリラヤ(カナ?)へ行こうとされる途中、フィリポと出会われます。そして彼に声をかけられます「私に従いなさい」b。唐突な短い言葉ですが、FOLLOW ME!イエスの後ろについて行く人生、それがイエスに従うという意味です。フィリポもアンデレとペトロ兄弟と同じ故郷、ガリラヤのベトサイダの出身者です。イエスが何かを成される以前に、イエスに従った彼らを見ますと、バプテスマのヨハネが果たした道備えの重要さを知ります。

4、 フィリポがナタナエル(バルトロマイ?)(21:2)にイエスを伝える(:45~51)

フィリポはナタナエルに出会い、彼にイエスを伝えて言います。「③私たちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。ナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」(:45)。フィリポは、イエスが聖書に記されているそのお方であることをイエスと出会って知りました。彼はイエスの何を見たのでしょうか。それに対して、ナタナエルは「ナザレから何の良いものが出ようか」と、フィリポとは対照的に低いトーンで答えています。「ナザレ」という町の名は旧約聖書に一切出ていません。ナザレとはどこの町か、と言う物言いです。

それゆえ、フィリポは彼に言います、「来て、見なさい」c

ナタナエルはフィリポの熱心な誘いもあり、イエスの許へ行きます。

イエスはナタナエルを良く知っておられて「(彼を)見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」と言われます。ナタナエルは驚きますが、さらに「(私はあなたが)フィリポに話しかけられる前にいちじくの木の下にいるのを見た」というイエスの言葉を聞いて、「ラビ(先生)、④あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」(:49)とイエスを理解します。

なぜ、彼はイエスのこのふたつの言葉で、イエスを神の子と告白できたのでしょうか。

いちじくの木の下にいたナタナエルの苦悩を覚えます。彼の心には、当時のユダヤ人に対して、特に宗教的指導者たち(律法学者・祭司・パリサイ人)に対して、偽りの無いほんとうのイスラエル人がいないことに義憤と悲しみがあったのではないかと思われます。彼は毎日彼の特別な場所であるいちじくの木の下で、真のイスラエルの回復を神に願っていた人であった、と私は想像します。彼は、自分の内面を、神への日々の訴えを、このお方は知っている、と悟ったに違いありません。

イエスのご自身についての予告―イエスの生涯、成されるしるしの予告(:50~51)

「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと(私が)言ったので、信じるのか。それよりももっと大きなことをあなたは見るであろう。」悩みを言い当てたので、信じるのか。これくらいのことは驚くに値しない。

「よくよく言っておく」良く聞きなさい。「天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる」これからあなたは、私に従う日々に神の御子のしるしの数々を見る。

イエスに従う人生、イエスの後ろについて行く人生には、素晴らしい、力強い神の御業を目撃する日々が始

まり、続きます。イエスに出会い、イエスと共に、この一度限りの人生を歩むことが、誰と出会い誰と共に歩むにまさって、どんなにか光豊かで、命豊かなことでしょうか。

竹田広志's Ownd

千葉県八千代市勝田台7-27-11 電話 0474-84-5045 牧師 竹田広志

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