7月2日(日)礼拝説教全文
「最初のしるし」 ヨハネ2:1~12
先週は「来なさい。そうすればわかる」「私に従って来なさい」とイエスに招かれ、イエスに従った弟子たちの記事を読みました。イエスの招きに応える人は、本当に幸いな人です。
ナタナエルを招かれたところでは、これからイエスに従って来る者に対して、「よくよく言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる」。これからあなたがたは、私に従う日々で、驚くべき神の御子のしるしの数々を見る、と予告されました。私達イエスと共に歩み、従う者たちも同様です。
天地を造られた神の御子が世に降って来て下さり、私たちの住むこの地を歩まれ、ご自身を通して「(父なる)神」を目に見える形で示されました。イエスは「人となられた神の子」「偉大な力あるお方」「私たちを罪から救うメシア(救主)」です。イエスについて、バプテスマのヨハネを初めとして、イエスと出会ったアンデレ、フィリポ、ナタナエルによる証言を聞いてきました。本日からはイエスの「(神の御子の)しるし」について観ていきます。神のひとり子としての栄光を現わされた内容です。
ヨハネによる福音書には、本日のしるしを初めとして、7つのしるしが記されています。(イエスが成された多くのしるしの中の7つです。20:30~31、21:25)
1) 水をぶどう酒に変える奇跡(2:1~12)
2) 役人の息子を癒やす(4:43~54)
3) ベトザタ(ベテスダ)の池で病人を癒す(5:1∼18)
4) 五千人に食べ物を与える(6:1~15)
5) 湖の上を歩く(6:16~21)
6) 生まれつき目の見えない人を癒す(9:1~41)
7) イエス、ラザロを生き返らせる(11:1∼45)
8) イエスの復活 (20:1~21:23)
「御子のしるし」として、ヨハネが何故この7つを選んだのかは定かではありません。カナの婚礼での記事は、ヨハネのみがイエスの最初のしるし(救い主・メシアであるしるし)として記しています。奇跡ではなくしるしと記すのは、目をみはるイエスの奇跡を書くのが目的ではなく、このお方が神のひとり子、メシアであることを示すことこそが本書の目的であることがわかります。そして、イエスの評判が拡がっていき、しるしの後には、イエスの教えとイエスと人々との対話が続き、イエスを信じる信仰の意味が明らかにされていきます。
(1)わたしの時はまだ来ていません(:1~5)
ユダヤの婚礼は時には一週間続く事もありました。その中で祝宴のぶどう酒が尽きてしまうという緊急の事態が起こります。イエスと共にイエスの母マリアはこの婚礼の手伝いに加わっていたようで、この突然のトラブルをイエスに報告します。「ぶどう酒がありません」(:3)何とかならないものか。母マリアと家族を助け、いつも何とかしてくれた長男イエスへの何かしらの期待があったのだろうと想像します。
ところが、イエスの言葉は冷たいものでした。「女よ、私とどんな関りがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」(:4)。「女よ、私とどんな関りがあるのですか。」血肉のつながりに母との間に一線を引かれた言葉です。公生涯に入られてから主イエスは、はっきりとこの事を覚えておられたことがわかります。今までとは違います。「父、母、子、兄弟を捨てて私に従うのでなければ、私の弟子となることはできない」とイエスは言われましたが、イエスの弟子たちも「父(家族)と網(仕事)を置いて」、イエスに従ったとあります。
「わたしの時はまだ来ていません。」これに対応するイエスの言葉として、「人の子が栄光を受ける時が来ました」(12:23)があります。「わたしの時」とは、十字架にかかるその時を示しています。十字架の時を、イエスは公生涯の最初から見定め、そこに向かっておられたことがわかります。
バプテスマのヨハネが明解・的確に証言した「神の小羊」であることこそが、イエスの最大の使命です。
マリアは召し使いたちに、「この方が言いつけるとおりにしてください」と言います。息子に願うのではなく、このお方の命じることに従うことを決断したマリアの霊的な判断があります。血のつながりに頼るのではないのです。
血肉のつながりだからではない。イエスは、全ての者に従うことを求められます。マリアはその真理を敏感にキャッチして(掴んで)います。
知って下さい。「私の願っている事をしてください」ではなく、「あなたの願っておられる事を行います。」これがキリスト者(クリスチャン、キリストの僕、キリストに属する者)が祝福を受ける方法です。
(2)水を満たしなさい(:6~8)
「ユダヤ人がきよめに用いる水」というのは、手を洗う、特に食前に手を洗うならわし(儀式)の水です。汚れた手で食物を口に入れないという宗教的な意味があります。全ての人がならわしに従って、しっかりと手を洗います。2、3メトレテス(80~120リットル)の水が入る石の水がめが6つ置いてありました。
* 私もイスラエルに行きました時、それと同じくらいの水がめが店先に置いてあるのを見ました。
イエスは言われます「水がめに水をいっぱい入れなさい」
早急に「ぶどう酒」が必要なのです。一人でも多くの人が、店に行くか、知り合いの家に出かけて調達すべきです。
イエスがそう言われると、「召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした」とあります。短い文章ですが、水道からホースを使って水を満たすのとは違います。町はずれの井戸まで水を汲みに行って、何往復もしてそれを成し遂げなければならないのです。並大抵でない重労働です。
彼らはイエスの言葉に従いました。この時、それは今の必要とは無意味と思われることを、たくさんの労を費やして成し遂げたということです。
イエスに従う事は時として、私たちの願いと全く違う回答であるかも知れません。私達には、無駄、無意味と思われること、感じることがいっぱいあるかも知れません。
トラクト配布は時代遅れだと言われることもあります。ラジオ伝道も時代に遅れているといわれることもあります。神の前に祈りを献げることにおいてさえも、無駄とか無意味とは思わずとも… * 世界の祈り
イエスの働き、伝道、宣教は、時に何の反応もなく、水の上にパンを撒くようなものかも知れません。
しかし、イエスは言われます「水がめに水をいっぱい入れなさい」。
水を満たすために汗を流した召し使いたちは、イエスの指示通りに、今度はそのかめの水を、宴会の世話役のところへ運んでいきます。もう一度確認します。何を?水を。
世話役はその水を味見します。世話役は結婚式の主役である花婿を呼んで言います。何と言ったでしょう。「あなたは良いぶどう酒を今まで取っておかれました」。最高のぶどう酒を最後に出すあなたは立派です!
(そのぶどう酒はどこから来たものなのか…水を汲んだ召し使いたちは知っていました)
この聖書の記事は、私たちに何を教えていますか。皆さん!イエスに従う時に、人の計画や思いをはるかに超えた祝福を、私たちはいただくことができるのです。
(3)水が最良のブドウ酒に変わる(:9~10)
水がブドウ酒に変わる。ここに変化があります。それも最高のぶどう酒に、です。良い変化です。
水(味気のないもの)がぶどう酒(喜び)に変わる。すべてを喜びに変えて下さる主イエス。
イエスはこの最初のしるしを ガリラヤのカナで行われました。(:11)
イエスはご自身のその栄光を現わされました。「それで、弟子たちはイエスを信じた。」とあります。
水を最高のぶどう酒に変えて下さるイエス。イエスのことばに従う祝福をあなたも受けることができます。
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