7月16日(日)礼拝説教全文 創立52周年記念礼拝
「教会はキリストのからだ」 エフェソ1:20~23
-命と使命・召し(働きを共にする)―
参照:第一コリント12:27 コロサイ1:18,24 エフェソ5:30 ローマ12:5
本日は勝田台キリスト教会、創立52周年記念の礼拝となります。52年前、日本ホーリネス教団から中居豊師、栄子師が「佐倉開拓」の任命を受け、志津、勝田台、米本、大和田と天幕伝道を展開し、八千代市勝田台の地で、会堂を建て上げ、勝田台キリスト教会と命名して今日まで歩んでまいりました。「もし信じるなら、神の栄光を見ると言ったではないか」(ヨハネ11:40)。ゼロからスタートした開拓の中で、何度も教会が試練の中を通る度に、イエスの言葉に信頼して、神の栄光を見せていただきました。
この勝田台の地に建てられた教会ではありますが、教会とは何でしょうか。エフェソの信徒への手紙には「教会はキリストのからだであり」(1:23)、そして、「私たちはキリストのからだの一部なのです」(5:30)と教えています。
いろいろな方達から言われることは、先生、わたしが聞きたいのは、教会についてではありません。どうしたら病気が治るかということです。どうすればこの経済的危機から脱することができるかということです。家族のことです。夫婦のことです。職場のことです。学校でのことです。友人とのことです。恋愛についてです。勉強についてです。仕事についてです。しかし、あなたの課題の解決の道は、意外に別のところにあります。直接その課題の近くではなく、全く違った場所にあることがあります。
1、キリストの権威と力
「神は、この力ある業をキリストの内に働かせ、キリストを死者の中から復活させ、天上においてご自分の右の座に着かせ、この世だけでなく来るべき世にある、すべての支配、権威、権力、権勢、また名を持つすべてのものの上に置かれました。また、すべてのものをキリストの足元に従わせ、すべてのものの上に立つ頭(かしら)としてキリストを教会に与えられました」(:20~22)。知って下さい。神は、全ての権威、いっさいのもの(あらゆる課題・あらゆる領域)の上に、キリストを置かれました。
私達は信じ、告白します。イエス・キリストはいっさいの権威の上に立つお方です。日常の課題から、世界の課題に至るまで、イエスに解決できないものはひとつもありません。イエスの名より上の権威はひとつも(:20~22)ありません。
私達は信じ、告白します。私たちのこの教会はそのキリストのからだであり、教会の頭(かしら)はキリストです。
私達は信じ、告白します。キリストはこの教会に満ちておられます。教会は世に見えるキリストのからだです。いっさいのものを、いっさいのものによって満たすキリストの満ちておられるところです。
キリストはあらゆる権威の上に立たれるお方であり、キリストの力の及ばないところは一つもありません。そして、キリストは教会をもってご自身をあらわされます。そのキリストのからだである教会には、全ての神の祝福が満ちています。あなたにとって、教会はそうでしょうか。
2、教会において私たちとキリストのつながり 「からだ」という表現 イエスが全ての良きものの源である。
聖書は、キリストと私達との関係を、様々なものにたとえて表現しています。羊飼いと羊、陶器師と陶器、花婿と花嫁、等。本日読んでいますエフェソの信徒への手紙にある、「からだ(ソーマ)」(からだと器官)という表現の意味は何でしょうか。ヨハネ15章の「ぶどうの木とその枝」のたとえとも似ています。
それは、生命的な関係を示しています。キリストと私たちには命のつながりがあります。
「かしら(ケファレー)」には、源、源泉の意味があります。イエスは、命、愛、恵みが流れてくる源です。
教会はキリストにより生み出され、キリストに常に依存し、絶えずキリストの力・愛・恵み、そして命を受けながら存続していくのです。
また、「かしら」と「からだ」、イエスとその部分である私たちとは、主・従の関係、使命を共にする関係を示しています。教会はキリストのものであり、主人はキリストであり、誰の所有でもありません。世が好むことでもなく、私達がしたいことでもなく、「教会のかしらであるキリスト」が求め、願い、命じておられる事を行うのが教会です。
イエスを信じ、その救いを受けた者は、新しい者へと変えられ、新しい生活がスタートします。それは、信仰生活(個人)と、教会生活(共同)です。
心とからだを神に向け、神を崇め、祈り、賛美し、神のみこころを知り、それに生きようとする生活です。
神が召してくださった教会の一員として加わり、互いにしっかりと結ばれ、召していただいた者にふさわしく(共に)使命に生きる新しい生活です。信仰者は独りではありません。キリストに召し集められ、共に使命に生きます。
個人の信仰の確立、共同体の一員としての私の確立。私の使命、私たちの教会の使命を覚えます。
教会はキリスト教の団体でもありますし、十字架のついた建物でもありますし、礼拝や祈祷会、伝道会などの活動をしている組織でもあります。目に見える形で、様々な取り組みをしています。その働きは多岐にわたっています。しかし、決して忘れてはならないのは、「教会はキリストのからだ」であるということです。
3、教会の使命 宣教
キリストは目には見えませんが、この世に教会という目に見える形で今も福音を宣教し、神の御業を行っておられます。私たちはキリストに召し集められた者として、キリストと共に生き、キリストの働きに参加します。イエスは「よくよく言っておく。私を信じる者は、私が行う業を行うだろう。そればかりか、もっと大きなことを行うであろう。私が父のもとに行くからである」と言われました(ヨハネ14:12)。不思議なことばです。キリストよりももっと大きなわざを行える人はいません。しかし、キリストの弟子達が全世界へ出て行って、あらゆる場所で、キリストのわざを行う、という意味です。
キリストは人として、特定の場所で、特定の人としか関わることはできなかったでしょう。ユダヤ人以外には遣わされていません。特別に12人をお選びになって、彼らにご自身の権威を委ねられました。ペトロに対しては、「天の国の鍵を授ける」(マタイ16:19)と言われます。「私はこの岩の上に(ペトロの信仰告白の上に)教会を建てよう。陰府の門もこれに打ち勝つことはない」(マタイ16:18)。そのペトロの信仰告白とは「あなたこそ生ける神の御子キリストです」です。イエスを神の御子、救い主と告白するならば(心から信仰をもって告白するなら)、私達も、この岩の上に建つキリストのからだの部分を成しているのです。
キリスト者は、神に選ばれ、召され、集められた者たち(エクレイシア)です。「召された者たち」とは招かれ、使命を受けた者たち、神のご計画の目的を与えられた者たちです。
その目的とは、「あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊によってバプテスマを授け、あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい」(マタイ28:19~20)。
「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は罪に定められる。信じる者は私の名によって・・・の神のわざを行う」(マルコ16:15~18)。
「あなたがたは、地の果てまで、わたしの証人となります」(使徒1:8)。
キリストのからだの枝である自覚がいよいよ深くされ(聖餐の度に献げられる祈り)、時が良くても悪くても御言葉を宣べ伝え、ますます励んで主に仕えることができますように。
病気になったので教会へ来る。仕事に行き詰まったので教会へ来る。人間関係に悩むので教会へ来る。希望・将来を見失ったので教会へ来る。全てのものの上に立つお方、イエスが、ご自身のいっさいのものをもって、いっさいのものを満たして下さいます。
今日もキリストがこの教会に満ちてください。私がそう願うこと以上に、むしろキリストが満ちておられる教会であることを感謝します。そして今、そこに私を招いてくださっている主イエスに感謝します。
4、コイノニア(主と共に、主を中心とした交わり)聖徒の交わり 神の家族 主にある兄弟姉妹
私たちは、聖書を通して教会がキリストのからだであり私たちはその一部(部分)であることを知り、その関係は私たちが命に与かり、愛・力・恵みというあらゆる恵みを受ける繋がりであることを示されましたが、父・御子・御霊との交わりと共に、同じようにその関りの中に入れられた、私達互いの関係もひとつであり、固い絆で結ばれていることを覚えたいと思います。キリストにより、新たに結ばれたつながりが、キリスト者の交わり、コイノニアです。
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