7月23日(日)礼拝説教全文 説教者 山下健太神学生

「一歩踏み出す信仰」

マタイによる福音書14章22~33節  

1.文脈の確認

今日の聖書箇所の文脈を確認します。イエス様の3年半の公生涯の2年が過ぎ、3度目の過ぎ越しの祭りが近づいている時期です。場所は、イエス様の宣教の中心・ガリラヤ地方の湖であるガリラヤ湖です。

文脈は、イエス様が12人の弟子をガリラヤ地方に派遣し、宣教がなされている時でした。その中で、今日の箇所の直前には、あの有名な5000人のパンの奇跡が起こりました。イエス様の教えを聞こうとして集まった5000人の群衆のために、5つのパンと2匹の魚を取り祝福し、全員のお腹を満たし、更に12のかごが一杯のパンが残ったという奇跡です。この奇跡は、イエス様の超自然的な力による物質的祝福をもたらしましたが、12弟子の訓練の目的も含まれていると見る事ができます。イエス様の公生涯が後半に差し掛かり、イエス様の関心は宣教のみならず、ご自身の昇天後の「使徒の働き」の時代に備えて弟子たちを訓練し、整えることにありました。ここでの訓練は、①牧者として人々を養い、霊的な食物を与える責任があること、②自分の力ではなく神の力をもってその責任を全うするということ、です。

この奇跡は4つの福音書全てに記録されている出来事で、弟子達の心に強烈な印象を与えました。そのような流れの中で、ガリラヤ湖上での嵐の出来事が起こりました。今日の箇所から、私たちの人生における困難は、神からの訓練・整える・信仰の成長の時であること知り、同時にそこにある神の恵みを教えて頂きたいと思います。

2.その場を離れるイエス様と弟子達(マタイ14:22~23)

(1)22節:イエス様は弟子達を強いて舟に乗せた

 5000人のパンの奇跡の後、イエス様は弟子達を“強いて”舟に乗せ向こう岸へ行くように指示を出します。具体的には、ガリラヤ湖の北東ベツサイダとう場所から北西のギノサレへの移動です。 “強いて”とは強い言葉です。無理やりにでもそうさせた理由は、弟子達をその場所から遠ざけるためでした。弟子達はこの場所に留まりたかったでしょう。しかし、イエス様はその危険性を見抜いていました。パンの奇跡を体験した群衆は熱狂し、弟子達も非常に注目を浴びました。彼らの信仰は、神の大いなる力をあがめるよりは、物質的な満たしを得られたという表面的な信仰でした。弟子達には結果だけを求める表面的な信仰から、その過程の中で神の助けと臨在を見る深い信仰へと成長が期待されていました。イエス様は、弟子達の成長のために舟の中へ導き、そして嵐の中での訓練へと導きます。 

(2)23節:イエス様も一人山に登り祈られた

イエス様もまたその場を離れました。祈るために山に登ったとあります。父なる神との祈りの時を必要としていたのでしょう。また、群衆がイエス様を王にしようとしていることにも気づいたからです(ヨハネ6;15)。イエス様が王となる神の時は来ていません。

3.嵐の湖での苦闘(マタイ14:24~27)

(1)24節:逆風に悩まされていた

 さて、目的地に向けて舟を出した弟子達でしたが、何スタディオン(数キロメートル、ヨハネ6:19)進んだ所で、逆風のために波に悩まされました。その地形はすり鉢状の形をしています。夕方になり、高い山々から風が湖底に流れ込んできたのでしょう。

「悩まされた」とは内面的な動揺、葛藤、悩みという意味があります。弟子達の中には、漁師もいました。それなのにも関わらず、思い通りに前に進まない、あの注目されていた場所に居たかった、イエス様はいったいどこにいるのか、疲れもあったでしょう、意気消沈していた姿が想像できます。

(2)嵐の中でも見ていてくださる神(マルコ6:48)

 弟子達が逆風で悩まされていた時、イエス様は何をしていたのでしょうか。並行箇所のマルコ6:48に「イエスは、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、」とあります。イエス様は、弟子達が逆風で苦しんでいる時にしっかりと見ていて下さるお方です。

イエス様は同じ眼差しで私たちを見ていて下さるお方です。そして、困難な中にも神の時に必ず助けを与えて下さる神であることを、信仰をもって受け取りたいと思います。 

(3)25節:弟子達の所に向かうイエス

 夜が明ける頃とは午前3時頃です。弟子達は夕方から夜明け頃まで9時間程、逆風の苦しみと戦っていました。もう疲れ果ててあきらめかけていた頃でしょう。“夜明け前が一番暗い”ということわざがあります。最も苦しく、辛い暗闇の中にいる状況の時に、イエス様は弟子達に近づいてくださいました。

(4)26節:「幽霊だ」

イエス様は水の上を歩いて弟子達の所に向かいました。その姿を見た弟子達はイエス様だとは認識することが出来ず、「幽霊だ」と叫びました。月明りしかない暗い湖の上で、水の上を歩くというあり得ない状況に遭遇したのです。弟子達の驚きは相当なものであったでしょう。

(5)27節:「安心しなさい」

しかし、イエス様は、すぐに「安心しなさい。私だ。恐れることはない」と声をかけられました。ここに、神の時が来れば、“すぐに”御言葉と助けが与えられるという希望を見ます。弟子達はこの言葉を聞いて安心したことでしょう。

ここでの弟子達を愚かだと笑うことはできません。私たちも、苦難の真っただ中にいる時、それに心を奪われ、苦しみで目の前が曇り神の存在を見えなくしてしまうことがあります。

しかし、イエス様はそんな私たちを見ていて下さり、最も暗く、辛いと思われる時にこそ、「安心しなさい、わたしだ。恐れることはない」と宣言して下さるお方であることを覚えましょう。苦難の最高潮にある時の助けこそ、神様に目を向けさせ、神の偉大さをほめたたえる時となるのでしょう。苦難の中にも神が共いることを信じる力強い信仰者に成長させていただけるよう祈り求めたいと思います。

4.水の上を歩くペトロ(マタイ14:28~31)

(1)28~29節:水の上を歩くペトロ

この箇所は、マタイの福音書だけに出てくる情報です。ペトロは弟子達のリーダーとしてイエス様のことを幽霊だと言った失態に対しての後悔と後ろめたさがあったのではと想像します。

衝動的な言動、行動ではありますが、まさにペトロらしいといえます。福音書を見ると、このようなペトロの行動から、イエス様の信仰訓練が始まり、大切な教訓を与えるパターンを見ることができます。ここでの出来事からも、霊的教訓を学んでいきたいと思います。

ペトロは、「主よ、あなたでしたら、私に命令して、水の上を歩いて御もとに行かせてください。」と願います。ペトロはイエスに対する信頼を告白しています。ここでのポイントは、水の上を歩くという奇跡よりも、イエス様の“御もとに行く”ことを求めている、ということです。ペトロはこの言葉を通して、イエス様への信頼と愛することを告白しています。

この突発的な行動に対してイエス様の返答は、叱責でもなくあなたにはできないという否定的なものでもありませんでした。単純に「来なさい」という許可でした。ペトロはそれに従いました。ペトロの純粋で幼子のような信仰は、私たちも模範としたいと思わされます。

ペトロは信仰をもって舟から踏み出した時、なんと意外にも水の上を歩けたのです。イエスの方へ進んでいる、イエスの御顔を見ているという点がポイントです。

(2)30~31節:沈むペトロ

しかし、その状況は長くは続きません。ペトロは風を見て恐くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。とあります。湖は舟が進まないほどの逆風が吹いていました。イエス様がいてもその状況は変わっていませんでした。波がたちます。実際に海の上に立った時の、波の大きさは漁師のペトロでも怖かったのです。信仰によりイエス様の顔を見て進んでいた世界から、風や波の大きさを見て、自分はなぜ水の上を歩けているのかという理性が働いてしまった。一気に現実に引き戻されました。

「主よ、助けて下さい」と叫びます。これは、イエス様に対しての助けを求める切実な祈りです。イエス様はそれを聞いて下さいました。沈みかけるペトロの手を“すぐに”捕まえて下さいました。ペトロは、イエス様が掴んでくださったその手の感触を、生涯忘れることはなかったでしょう。この感触は、この訓練を実際に体験したペトロしか分かりません。使徒の時代、この体験がどれだけペトロの信仰を助けたことでしょうか。皆さんにも、信仰生活を振り返ると、私を見ていて下さる神、言葉をかけてくださる神、救い出して下さる神というような個人の経験があるのではないでしょうか。

イエス様は「信仰の薄い者よ。なぜ疑ったのか。」と言葉をかけます。その後、イエス様に手を握られたペトロは、水の上を歩いて舟まで戻りました。並行箇所ヨハネ6:15の英語訳では、弟子達は喜んでイエスを舟に迎えたとの記述があります。そのような状況から、私は、このイエス様の言葉は不信仰への叱責の意味と同時に、イエス様の愛と憐みと励ましが詰まった言葉だと受け取りました。わたしに信頼せよと優しくも力強く語って下さるイエス様にお従いできる喜びを感じることができました。 

(3)32~33節:イエスの権威

舟の中に戻った瞬間、風が静まりました。これが偶然ではないことを弟子達は感じ取り、イエス様の神性を認め、礼拝をしました。自然界を支配する神の権威に畏れ、ひれ伏したのです。弟子たちは、イエスこそ神であることを体験的に学びました。

更に、ヨハネ6:21によれば、その後すぐに向こう岸に着いたとあります。神様からの訓練には、必ず出口があります。ここに苦難に対する忍耐と希望を見出していきたいと思います(Ⅰコリ10:13)。弟子達は、逆風という苦しみを通して、全ての支配者なるイエス・キリストからくる助けの確かさを、自分たちの経験として積み重ね、力強い信仰を養われていきました。

4.まとめ 

(1)イエス様は人生の苦難の時でも私たちを見ていて下さるお方である

私たちの人生には逆風が吹きます。悩み苦しみが確かにあります。しかし、そのような時でもイエス様は、“私たちを見ていてくださるお方である”ということに、本当に慰めを頂きました。神は私たちを助けるために近づいてきてくれるお方です。苦しみや解決が見えない状況の中で、神の姿を見ることができない時もあると思います。そのような時でも、神の方から「安心しなさい、わたしだ、恐れることはない」と声をかけて下さることに平安を頂きました。私たちは訓練の中を通りますが、忍耐と希望を持ち続けたいと思います。向こう岸に着いた時、私たちは神への深い信仰を得ることができるのです。

(2)ペトロから信仰の一歩を踏み出すことを学ぶ

 ペトロが舟からの一歩を踏み出す時、相当の信仰を見せたと思います。私たちクリスチャンも、誰もが一度はこのように大きな信仰の一歩を踏み出す経験をしています。それは、イエス様を救い主と信じた時です。神に背を向けて歩いてきた私たちの罪を赦すために、イエス様は十字架にかかり死に、墓に葬られ、そして復活し今も生きておられる。このことを信じるだけで、私たちは神と和解し、永遠のいのちにあずかることができる。これを単純に信じてみよう、全ては理解できていないけれど、神様と共に歩もうと一歩踏み出したのです。ペトロは、水の上をどのように歩くのか分かりませんでした。しかし、イエス様の「来なさい」といった言葉を信じて水の上を歩き始めました。もし、心の中にイエス様からの「来なさい」という語り掛けがあるならば、その言葉を信じ歩み出して欲しいと思います。

このペトロの箇所の聖句は、私が直接献身するときに神様から励ましを受けた御言葉です。私は、大学3年の時の妻との出会いをきっかけに、救いにあずかりました。教会や大学生の伝道団体を通しての福音伝道や海外への短期宣教経験の積み重ねから、直接献身をして神様に仕えたいという思いを持っていました。そして、2012年のYouth Jamの招きの時間に直接献身の決心をしました。しかし、実際に神学校へ踏み出すまでにそこから10年かかりました。海外への転勤や家族も増えたこと、新型コロナの流行もあり、中々踏み出すことが出来ませんでした。決心したのにも関わらず、月日だけが経過し、具体的な一歩を踏み出せない自分の不甲斐なさに、涙しながら神様に助けを求めていました。その時、この御言葉に大いに慰められました。「信仰の弱い私が、神様の助けなしでは沈んでしまう大きな湖の上に踏み出そうとしている。神様は必ず力を与えてくださる、沈みそうな私の手を捕らえて引き上げて下さる」という励ましを頂くことができました。

実際、水の上に踏み出した私たち家族ですが、子供たちの成長面、経済面、将来の遣わされる地など不安ばかりを見てしまい、湖に沈んでいることが多々あります。しかし、その都度神様は、僕の手を捕らえ、引き上げてくださる経験をしています。その感触を実際に体験しています。勝田台キリスト教会に導かれたこともその一つです。

私たちのクリスチャン生活は嵐や逆風があります。神様の御心を歩む時にも嵐は来ます。嵐は、私たちの信仰を成長させるために必要な条件です。そのような嵐の中に信仰の一歩を踏み出す時、私たちはどこを見るのか、しっかりとイエス様をだけを見ているか、それが信仰の歩みにとって非常に重要であることを学ばされます。勝田台キリスト教会の創立50周年の記念誌を拝見させて頂きました。それは、嵐、苦難、逆風の中でもイエス様を見続けている信仰と、イエス様が確かに皆さんの手を捕まえて、共に歩んでいる光景でした。

皆さんの今の状況はいかがでしょうか。舟の中にいるでしょうか、踏み出している時でしょうか、今まさに沈みそうになっている時でしょうか。コロナ禍から抜け出し、教会としても水の上を歩こうとするステージに行こうとしているのかもしれません。イエス様から目を離さず、そこにある神の助けと導きを信じたいと思います。私たちの手をしっかりと捕らえて導いてくださいます。「万事が共に働いて益となる(ロマ8:28)」。この信仰と希望をもって、神の栄光のために共に歩んでいきましょう。

竹田広志's Ownd

千葉県八千代市勝田台7-27-11 電話 0474-84-5045 牧師 竹田広志

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