7月30日(日)礼拝説教全文

「新しく生まれる」 ヨハネ3:1~15

信仰とは決断です。長く求道していて、なかなか信仰告白の決断ができない人がいます。また、来てすぐに信じて信仰告白をする人もいます。どちらが良いとも言えませんが、大事なのは信じるというのは、理解できたから信じますと告白するというより、イエスを見て、イエスに信頼して、あなたを救い主と信じますと決断することです。あなたの決断の先に、ただちに神があなたを救ってくださいます。

エルサレムの神殿でイエスが宮浄めをされた時、ユダヤ人たちは「(何の権威があってこのようなことをするのか。あなたのしていることが正しいのであれば)しるしを見せろ」とイエスに詰め寄りました。

イエスはエルサレム滞在中、過越しの祭りの期間、多くのしるしをなされました。病人を癒し、悪霊を追い出されました。そのしるしを見て多くの人がイエスの名(その権威)を信じました。

そのような中で、一人の人がイエスを訪ねてきます。

ニコデモです。 他:ヨハネ7:50 19:39

彼はパリサイ派のサンヒドリンの議員でした。

サンヒドリン議会とはユダヤの最高法院で、70人(71人)で構成されていました(民数記11:16)。

大祭司をトップに、祭司を中心とするサドカイ派、律法学者を中心とするファリサイ派に分かれていました。サドカイ派とパリサイ派は与党・野党という感じでしょうか。今日でいう裁判所・警察・(宗教的)教育機関の働きを担っていました。いずれにしてもエリートの人々です。

ニコデモは夜、イエスを訪ねたとあります。それは、人目をはばかって(でも)という内容です。人々を指導する立場にあり、地位も名誉も、知識もある年配者である彼が ガリラヤ出身の田舎の学問も積んでいない30代の若者イエスに教えを乞いに来たという構図です。夜は、ニコデモの心の闇をも示唆する言葉です。何かを求めて、真理を求めて。彼の心に晴れない強い求めがあったことを想像します。高い地位にある彼が、へりくだってイエスに求めている姿がここにあります。イエスが神殿でなされたこと、そして、エルサレムでなされた数々のしるしを見てここに来ています。

知って下さい。へりくだってイエスに求める者の救いの日は近いことを。「神の求めるいけにえは砕かれた霊。神よ、砕かれ悔いる心をあなたは侮りません。」(詩篇51:19聖書協会共同訳)

 

へりくだって神の前に出る。

「先生、私どもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたがなさるようなしるしを、誰も行うことはできないからです。」

この言葉には、ニコデモのイエス理解があります。ひとつは、ニコデモも教師ですが、イエスは、「神のもとから来られた教師」、ひとつは「神が共におられる(インマヌエル)」ということです。イエスに対する懐疑的な理解ではありません。

イエスはニコデモに答えられます。

「よくよく言っておく」(:3、:5、:11)イエスが大事なことを話される前に使われる口調です。

「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(:3)。全く唐突な答えがイエスから返ってきます。このイエスの回答から導き出される問いこそ、ニコデモが求めているものであることが分かります。

「どのようにして、人は神の国に入ることができますか。どうすれば、人の罪は取り除かれ、救われますか。私達が教えていることでよいのでしょうか」

戒め・教えを学び、又、教えてきた彼ですが、そんな教えは聞いたことがありません。「年を取った者が、どうして生まれることができましょうか。もう一度母の胎に入って生まれることができるでしょうか」(:4)と答えます。ニコデモも、当時のパリサイ派、律法学者、教師(ラビ)と言われる人も、神の戒めを守ることによって天国に入ることが出来ると教え、そのために多くの戒めを彼らに教えていました。

しかし、主イエスは、「新しく生まれなければ」と言われます。

律法を守って救われるのではない、新しく生まれて救われるのであるというのです。

律法を守り、罪の赦しの為の贖いの動物を献げ、少しずつ悪い部分が取り除かれていくのではない、瞬く間に、一瞬にして全く新しくされるのです。生まれるというのはそのようなものです。母親の胎から、赤子が生まれるようなものです。

新生(新しく生まれる)の経験は、人の努力や修行、肉の力で得るものではない。神が(上から)あなたを新しく生まれさせて下さるのです。全く新しい命に造り変えて下さるのです。それは、神の業です。  

洗礼式では、その意味が強く知らされています。古い自分に死んで、新しく生まれる。水と霊とから新しく生まれるという経験を得る、得たという告白です。 カトリックではクルスチャンネーム(洗礼名)が与えられます。キリスト教会では、洗礼の日を第二の誕生日とも表現します。全く新しい存在へ生まれ変わります!

「よくよく言っておく」

「誰でも水と霊とから生まれなければ」(:5)

強調されるのは、肉ではないということです。人を新しい存在に作り変えるのは、私達の努力ではなく、御霊の力、御霊による「きよめ」の力であるということです。

新しく生まれた人とは、以前と何が違うのか。「神の国を見る」(:3)「神の国に入る」(:5)とあります。

イエスの説教の生涯のテーマは、「天国、神の国」です。kingdom of God 神の王国(神の支配)です。

新しく生まれた者は、「神が生きておられ、この世界を治めておられること」を知ります。「その権威は地の隅々に及んでいること」「全地の王として、審判者として立っておられること」「豊かな救い主として この地を力強く救って下さること」「自分の人生も、世界の歴史も偶然というものはない。神の計画の中に進んでいる」ことを知ります。あなたは神の国を見ていますか。神の国に入っていますか。

イエスの説教のテーマは、「神の国」です。そして、イエスの弟子達の説教のテーマは、イエス(十字架と復活)ご自身です。イエスの十字架と復活を通して、神の国に入る、神の国を見る(体験する)ことができます。イエスの十字架は入口の門です。イエスは神の国に入るための「狭い門」です。救いの門が、ここに開いています。どこから登っても、同じ山頂にたどりつくのではありません。

イエスが、ご自身の命という代価を払って開いてくださった門です。

誰でも イエス・キリストの十字架を通してでなければ、神の国に入ることはできません。

新しく生まれなければ 水と御霊によってでなければ、神の国に入ることはできません。

十字架に上げられた主イエスを仰ぐ者、信じる者が、永遠のいのちを持つのです。

「悔い改めなさい。そして罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい」使徒2:38

ニコデモの3度目の登場場面で、十字架で死なれたイエスのなきがらを、墓へ埋葬する彼の働きがあります(19:39~42)。

十字架を前にして、ユダヤの指導者ニコデモは知ったでしょう。悟ったでしょう。イエス・キリストの十字架は私の罪を赦すための、贖いの十字架であったのだと。「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことはできない」(ヨハネ14:6)

竹田広志's Ownd

千葉県八千代市勝田台7-27-11 電話 0474-84-5045 牧師 竹田広志

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