8月6日(日)礼拝説教全文
「神は愛です God is Love」 ヨハネ3:16~21
本日の箇所は、イエスとニコデモとの対話とイエスの宣教の間に挿入されているヨハネの解説文のようなものです。ヨハネは所々に、イエスの生涯の出来事を記すと共にイエスの生涯の意味について解説します。特に、この3章16節を、宗教改革者ルターが「小福音書」と呼んだのは有名です。この短い一節の中に福音のが要約されていると言われています。
1、神は世を愛された
2、その独り子をお与えになったほどに
3、御子を信じる者が、一人も滅びないで、永遠の命を持つためである。
① 神は世を愛された
神はどのようなお方か・・・神は愛です(第一ヨハネ4:16 God is Love.)。聖書の神の御性質を最も良く、分かりやすく表している言葉です。私達の神は、私達に惜しみなく愛を注ぎ、愛し続け賜うお方です。
教会や、キリスト教の世界ではあたりまえの表現ですが、日本人の神観は全く異なります。「神は愛です」という神観はありません。日本人の神観は、何にご利益があるか、という八百万の分業の神様です。無病息災・商売繁盛・学業成就・家内安全・交通安全・安産・縁結び等、それぞれの神の御利益があります。人々はその必要に応じて、ご利益のある神に祈願します。
聖書の「神の『愛』」ということばは、アガペーという語が使われ、人の愛と区別されています。
アガペーの愛とはどのようなものでしょうか。第一コリント13章は、愛の章と呼ばれています。愛とはどのようなものであるかが記されています。これを読みますと、何と自分は愛がないのかと心探られます。
愛は神から出ています。(第一ヨハネ4:7~9)なぜならば、神は愛だからです。男女の愛も 友愛も、家族愛も、私達を創造し、愛して下さる神から出ています。
その中での最大の愛の表現は、ヨハネ15:13にあります。「友の為に命を捨てる」と言われるイエスの言葉です。
人の愛と神の愛を比較しますと、たとえ大きいとされる親の愛でありましても、「自分の子」という意味において無条件というものではありません。神の愛は無条件の愛です。ヨハネ3:16にあります神が愛された「世」とは、「世界」「世界の全ての人々」という意味合いと共に、神に従う聖徒、正しい人々ではなく、神に背を向けて生きている罪の中にある人々、「世」という意味があります。
* 松本三郎師のメッセージで、強く心に残っているのは、神の愛は「だからの愛」でなく「でもの愛」です。罪人でも、敵対する者でも、愛して下さるのです。
神は、無条件・無償でご自身の愛を私達に与え続けて下さいます。
神は人を造り、神と交わる者として神のかたちに創造されました。人は神の戒めに背きますが、罪を犯した人間をなおも愛して、かかわり続けておられる神の姿が聖書のイスラエルの歴史にあります。私達にっとって、聖書を通して、キリスト者の交わりを通して、神の愛を知る、キリストの愛を知る以上に、最高の喜びはありません。神は愛です。私達を愛して下さるのが、聖書の神です。
「君は愛される為 生まれた」 人は神に愛され、そして神を愛し、人を愛する者として造られました。
② どのように、どれくらい 神は私達(世)を愛されたのか
「ひとり子をお与えになったほどに」です。最も大きな愛は、先にイエスの言葉を読みましたが、自分の命を相手の為にささげてしまう事です。((ヨハネ15:13))
* 塩狩峠で路傍伝道。
独り子は(自分の命よりも尊いもの)かもしれません。
この私達の世界に人となってくださり(受肉)、私達の罪の身代わりとなって十字架で罰を受け、命を捨てて下さったイエスさま。私達の罪の赦しの為に身代わりとして、ご自身のひとり子をお与えくださった神さま。
誰かの命が救われるために、自分の大事な、愛する独り子の命を身代わりに差し出す親はいません。(人にはできないが神にはできます)
神が私達に与える救いは、罪には目をつぶって、上から救ってやるというものではない。神ご自身が痛みという代償を払われ、成し遂げて下さったものです。神の痛みは愛です。
イエスの十字架の痛み、独り子を惜しまず与えて下さった神の痛み、ここに愛があります。
神様の「人が罪を心から悔い改め、神のもとに帰ってくる」方法として、どうして神はこのようにされるのか。それは、神は愛だからです。
無理やり連れ戻すのではなく、愛をもって、救いの道を開き、悔い改めて帰って来るのを待っている父、とイエスはたとえで話されています。(ルカ15)
それは神の愛、神の憐れみです。これが、人が罪から救われる道です。
愛するあなたが、私が、滅びることなく、永遠の命を持つために。
③ 永遠の命は、イエスを信じる者に、神様がお与えになる。
神の独り子イエスの十字架の贖いによって、神の愛によって、新しい救いの道は開かれました。
そして、それを私達は、信仰によって(信仰によってのみ)受け取ります。
永遠の命の対極は「死」です。私達は例外なく、全ての人が確実に死に向かっています。そして聖書が私達に伝えるもうひとつの避けられない事実を、「死んだ後、裁きを受けることが定まっている」(ヘブライ9:27)と教えています。
死への恐れ
まっすぐに、自らに定まっている死という事実と、自分の罪に対する神の裁きと知らされる時、恐れを覚えます。 聖書を通して知る私。罪を持ったままでは、人の行きつくところは死と、裁きによる滅びしかありません。
知って下さい。罪の解決・赦しなしに、死の解決、滅びからの救いはありません。
「一人も滅びないで、誰一人滅びることなく、永遠の命を得るために!」
世という言葉の中に、自分の名前を入れてみてください。誰のためではない。私のために神は独り子イエスをお与え下さいました。
福音とは、①神の愛であり、②神が私達の救い(罪と死からの)のために ひとり子イエス・キリストを下さったことであり、③キリストによって、死から命へ移されることです。
イエスは、あなたの罪の赦しの為に、十字架で命を捨てて下さった。
あなたが自分の罪を悔い改め、十字架に架かられたイエスを見上げ、私の救いの為であると信じるならば、あなたの罪は赦されて、罪の結果である死ではなく、救いの結果である永遠の命をいただくことができます。
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