8月13日(日)礼拝説教全文

「天から与えられるのでなければ」 ヨハネ3:22~30  

福音書の記者ヨハネは、元々は洗礼者ヨハネの弟子であったこと、又、洗礼者ヨハネは祭司ザカリヤの息子(ルカ1:5)であったことを覚えたいと思います。

ヨハネは、イエスと洗礼者ヨハネについて再び記し、解説します。

洗礼者ヨハネは、サリムに近いアイノンで(ガリラヤ側のヨルダン川上流で)(:23)悔い改めのバプテスマ(洗礼)を授けていました。洗礼者ヨハネから洗礼を受けたイエスは、南方のユダヤ地方に弟子たちと共に行き、そこで同じ働きをし、イエスの弟子たちが洗礼を授けていました。イエスがエッセネ派・クムラン教団の一員(禁欲生活を送り、沐浴で身を清める集団の一員。洗礼者ヨハネ、イエスもこのグループだったという学者もいます)と言われる理由は、イエスの働きの初期において、イエスの弟子達がバプテスマを授けていたからです。又、復活されたイエスは最後に弟子たちに、「あなたがたは行って、全ての民を弟子としなさい。彼らに父と子と聖霊の名によってバプテスマを授けなさい」(マタイ28:19)とバプテスマを行うことを命じています。本日の聖書箇所で、水で「洗礼を授けていたのは、(あくまでも)イエスご自身ではなく、弟子たち」でした。(4:2) イエスが誰かに水でバプテスマを授けられた記録はありません。

そのような中で、洗礼者ヨハネの弟子たちとユダヤ人指導者の間で、「清め」についての論争が起きます(:25)。どのような論争かは定かではありませんが、洗礼者ヨハネは祭司の家系です。祭司の勤めとしては、罪の悔い改め、清めにおいて動物のいけにえを献げる祭儀があります。又、ユダヤ人の生活の中において、食前の手洗いや、市場から帰った後に身を清める(マルコ7:1~4)ことなどもありましたが、川で沐浴して身を清めるというバプテスマを、祭司の子であるヨハネが人々に行っているのは、なぜなのか、という批判的なものかも知れません。又、洗礼者ヨハネの、荒野での「悔い改めの洗礼」の働きが評判になっていた中、ユダヤの地域でもイエスの弟子たちが「洗礼」の働きをしていったことに、当時の宗教的指導者、ファリサイ派、律法学者達は危機感を覚えたのかも知れません。         

洗礼者ヨハネのもとに多くの群衆が集まっていました。しかし、徐々にイエスの方へ人々が流れていく様子が、洗礼者ヨハネの弟子たちによって語られています。「あなたがバプテスマの働きを始めたのに、後から来たイエスが同じ働きをして、皆がそちらに行ってしまいます」という不満があるかのような言葉です(:26)

①  洗礼者ヨハネの回答

「人は天から与えられるのでなければ、何も受ける事はできません」(:27)

全ての権威、全ての良いものは神から来ます。洗礼者ヨハネのことばは「私は私が神から受けた分、私の使命を全うする」というものです。ところが、洗礼者ヨハネの弟子たちは、イエスでなく師を支持し、師を高くし、その働きを広げようとしています。

さらに続く彼らの師のことば、「私はメシアではなく、あの方の前に遣わされた者だ」(:28)。ここに分をわきまえる洗礼者ヨハネの姿があります。私達は人からの誉れを受けると、直ぐに思い上がり高ぶります。そのような性質が私にもあることを、事ある度に心に留める必要があります。しかし、だからと言って殊更に卑下する必要もありません。洗礼者ヨハネも『私はキリストではなく、その前に遣わされた者である』と言っています。神様から遣わされた者としての使命をしっかり受け取っています。そういう意味で私達も自分に神から与えられる分、使命をしっかりと受け取っていくことが大切です。

洗礼者ヨハネは「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることはできません。」と答えました。自分が受けているものと、他者が受けているものをきちんと分けなければならない。私達は、他人を見て自分と比較して「羨ましい」という気持ちや嫉妬の思いが出てきます。すると心穏やかでなくなります。 正しい人イエスが、どうして十字架にはりつけにされたのか。人間的な意味での原因は、当時の宗教的指導者たちの嫉妬の故です。嫉妬の炎は、清さを焼き尽くします。

「何故あの人に神の祝福は来て、私には来ないのか」ではなく、神がそれを良しとして私に与えて下さった神の賜物・使命にしっかりと立つ事が大切です。自分の立場をきちんと受けとめていないと、妬みや嫉妬などの思いが心の中に湧き立ちます。自分が衰退し、惨めになりますと「何故」という思いが出てきますが、その時に「人は天から与えられるのでなければ、何も受ける事はできません」(:27)と告白するのです。

②  喜ぶ介添え人(:29)  

「花嫁を迎えるのは花婿であって、介添え人(の役割)は花婿の声を聞いて大いに喜びます。」洗礼者ヨハネは、自分は介添え人であって、その喜びに満たされていると告白しています。

共に悲しむことより、むしろ難しいのは、共に喜ぶことです。他人が良いものを受け、栄えると私達はうらやましく思うからです。嫉妬せず、喜ぶ者と共に喜ぶためにはどうすればよいのでしょう。

自らの受ける分と使命をしっかりと自覚することです。神である主が私達に託し、与えるものは、ある者は1タラントン、ある者は2タラントン、ある者は5タラントンなのです。神は不公平なお方でしょうか。そうではありません。まして、1タラントンは小さな額ではありません。(約6,000万円、ある学者は23年分の給料に相当すると言います。)神から与えられる自らの分・立場・使命、それがしっかりとしますと、私達はありのままの姿で生きることが出来ます。神に与えられたもので、神に仕えていくことが出来ます。嫉妬は私達自身を不自由な者とし、あるがままでいることができなくなります。

「あの方は必ず栄え、私は衰える」(:30)

自分が一生懸命に活躍してきた場面が段々削り取られ、自分の役割が薄くなっていく時、私達は本当に喜ぶことが出来るでしょうか。「ここは人に明け渡していくべき所」と思えるなら本当に幸いです。自分の地位やプライドをしっかりと握り、何としても取られないようにすると、心の余裕がなくなり周りが見えなくなっていきます。このような思いを日々、主によって削り取って頂き、清めていただきましょう。キリストが崇められることのみを求めていきましょう。そのために自分の栄えが削られていくことを喜ぶ姿勢を洗礼者ヨハネと共に持ちたいと思います。人は誰も自分がないがしろにされること、必要とされないことに反発を持つのですが、その時に「私ではなくて主が崇められる。これで良い」と祈っていくことが大切です。それが穏やかな人間関係の中に生き、また穏やかに日々を重ねていく秘訣でもあります。自分が栄える事を望みつつ、イエスの証しができると思ってはなりません。証し人は身を低くして、やがて自分は消えて行く。こうしてキリストの栄光が現われます。

福音書の記者ヨハネは、洗礼者ヨハネの証言を記し、再びイエスについて伝えます。

イエスは、上(天)から来られたお方、全てのものの上におられる 

イエスは、神がお遣わしになった

イエスは、神の言葉を語られる

イエスは、限りなく神の霊に満たされておられる。

イエスは、神の全てを託された。

イエスは神の御子、唯一無二のお方。この「御子を信じる人は永遠の命を得る」。

ヨハネは自分の師であった洗礼者ヨハネが証言したように、イエスは天から来られたメシア、私達に永遠の命を与えるお方である、と伝えます。イエスを疑う者もいるでしょう。ヨハネは、「誰もその証しを受け入れない」とイエスを拒絶したユダヤ人について述べています(:32)。しかし、その証しを受け入れる者、信じる者はどうなるでしょうか。イエスを通して、神の真実を認めるのみか、神から永遠の命を得ます。

信じない者にならないで、信じる者になりなさい。

竹田広志's Ownd

千葉県八千代市勝田台7-27-11 電話 0474-84-5045 牧師 竹田広志

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