8月20日(日)礼拝説教全文
「決して渇かない生ける水」 ヨハネ4:1~18
本日の礼拝のテーマは「渇き」についてとなります。私達は(私は)何に渇くのでしょうか。「人間の渇き」とは、そして、主イエスの与える「生ける水」とは何か。また、本日の聖書個所に登場するサマリアの女の人物像に触れ、彼女は何に渇いていたのか。そして、イエスとの出会いを通して彼女は何を得たのかを読み取りたいと思います。
イエスはヨルダン川下流で弟子たちに洗礼の働きをさせていましたが、ユダヤを去って、またガリラヤに戻られます。(:3)
「しかし、(イエスは)サマリアを通らねばならなかった」(:4)とあります。当時通常ユダヤ人は、ヨルダン川の向こう岸を迂回し、サマリア地方を避けてガリラヤへ行きます。ユダヤ人とサマリア人には深い溝があり、彼らの間に交流がありませんでした。しかし、ここに、あえてサマリアを通らなければならないイエスの強い意志があります。
* ユダヤ人とサマリア人との関係(:9) ユダヤ人から軽蔑され、嫌われていたサマリア人
イエスの決意はサマリア宣教と、特別にこのひとりのサマリアの女に会う為であったことがわかります。
サマリアの町外れの井戸で、昼の12時(直訳ではユダヤ人の六時)頃、イエスは旅の疲れで、ひとり腰をおろしておられました(:6)。イエスの弟子達は、町はずれの井戸から食物を買いに出かけていました。
昼の12時に水を汲みに来たサマリアの女がいます。(:7)
見知らぬユダヤ人の男が、自分が水を汲もうとする井戸の傍らに腰をおろしている
昼の12時に井戸に水を汲みに来る者はいません。大抵、涼しい朝方か夕方に女たちは水を井戸に汲みに来ます。人目を避けるようにして 水を汲みに来る一人の女の姿がそこにあります。(当時このような井戸は女性達の社交場となっていました 井戸端会議)人を避けるようにして水を汲みに来た女。
人目を避けるようにして夜、主イエスを尋ねたニコデモと共通するものがあります。彼の心の渇きは真理を求める渇きでした。イスラエルの教師でありながら、何かが不足していることを自覚しているニコデモと彼の周りの教師たち。年長者で、地位のあるニコデモに対して、毅然とした態度で語られるイエスの記事を私たちは既に読みました。
イエスは女が驚く行動に出られます。見知らぬユダヤ人の男であるイエスが、サマリア人の女である自分に声をかけられたのです。イエスはこの女に願い出て「水を飲ませてください」と御声をかけます。(:7)
本当にこの女性はびっくりしたことでしょう。
主イエスとこの女との対話 1
「水を飲ませてください」
「ユダヤ人のあなたがサマリアの女の私に、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」
「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水をください』と言ったのが誰であるかを知っていたならば、あなたのほうから願い出て、その人から生ける水をもらったことであろう」
「主よ、あなたは汲む物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生ける水を手にお入れになるのですか。あなたは私達の父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸を私たちに与え、彼自身も、その子どもや家畜も、この井戸から飲んだのです」
「この水を飲む者は誰でもまた渇く。しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。」
「主よ、渇くことがないように、また、ここに汲みに来なくてもいいように、その水をください」
ヤコブの井戸、そして、水についてのイエスとサマリアの女との対話です。
この女の「水をください」という言葉は、イエスにその水を切に願い求めた言葉であったのでしょうか。この言葉のもつ響きで、この記事の出来事の全体は変わってきます。
私には、この女の言葉はイエスに対する皮肉にも聞えます。「汲む物も持たずに何を言っているのか。渇かない水とは、何と突拍子もない話か。」人目を避けて水を汲みに来た女でありますが、気の強い、非常に鼻っ柱の強い女の印象を受けます。人にどのように思われようが、誰かと対峙するなら、負けないような女。しかし、人との交わりを避けている女のようなイメージを受けます。
主イエスとこの女との対話 2
そこで 主イエスはこの女の核心、隠されている事実に触れられます。
「行って、あなたの夫を呼んで来なさい」
女はこの突然のイエスの言葉に、「水をください」と言われた時以上に驚いたでしょう。
女はこれまでのトーンとは違って、勢いなく「私には夫はいません」と答えたのではないでしょうか。
「『夫はいません』と言うのは、もっともだ。あなたには5人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたの言ったことは本当だ。」
「あなたには夫が5人あったが、今一緒にいるのはあなたの夫ではない。」とはどういうことでしょうか。不幸な結婚生活を繰り返しながら次から次へと夫を変えて、今一緒にいるのはあなたの夫ではないという状況が考えられます。彼女は今までいつも、自分が支えとなり、寄り添える相手をずっと求め続けて来たのですが、ことごとく失敗してきたのです。イエスは、彼女の人生の最も暗い部分に命の光を、命の水を与える為に、サマリアを通らねばならないと決意されて来られたのです。
この女の渇きとは何だったのでしょうか、それは「愛」です。「愛されたい」「寄り添いたい」と願いながら、しかし、満たされることのない現実の生活があります。
イエスはサマリアを通らなければならなかった。その理由は、どうにも満たされない孤独な、心の渇ききったひとりのサマリアの女を救うためであったのです。
この一人の女の渇きを生ける水で満たす為に、サマリアを通らなければならなかったのです。
この女はやがてイエスに心を開いて、イエスとそのお言葉を信じ、イエスの言われたとおり、「生ける水」を求めて受け取ります。「決して渇くことのない水」、それは内から泉となって湧き出る水です。どうしてこの女は心を開いたのでしょうか。太陽が真上に上がる暑い真昼間、井戸のかたわらに座っておられたイエスの、その眼差し、そのお言葉は、他の人と違っていたのではないでしょうか。冷たい町の人々の視線とは違って、何一つ責めない、愛のまなざしでした。そして、すべてを知って受け入れて下さっているそのお言葉でありました。イエスの愛によってこの女は変えられたのです。
女から、泉となって湧き出る水があふれ出て来ます。いや、私達の内からも湧き出るのです。
私達の罪の為に十字架で死に、罪の赦しを与えるイエスのまなざし、その御顔、そのお言葉に触れる者は、かつて経験したことのない神の愛を知るのです。
「その水をください」 私達は今日、イエスから生ける水をいただきましょう。
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