8月27日(日)礼拝説教全文

「真の礼拝者」 ヨハネ4:19~30

「サマリアを通らねばならなかった」(:4)

イエスとサマリアの女との井戸のそばでの出会いの続きとなります。

イエスとサマリアの女との対話は、決して渇くことのない「生ける水」から、礼拝すべき場所「霊と真実の礼拝者」へ移ります。

イエスとサマリアの女の対話の流れの中で、井戸の傍らで「水をください」から始まった「生ける水」と、本日の箇所の「霊と真実の礼拝者」について。全く違った内容の印象を受けますが、イエスから「生ける水」を受け、決して渇くことのないその水を飲み、その人の内で泉となって、永遠の命に至る水が湧き出る(:14)ことと、霊と真実によって神を礼拝するという二つは、全く別の内容のようでありますが、同じ一つのテーマとして読みたいと願っています。

「あなたには5人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない」と言われるイエスの言葉を聞いて、サマリアの女の心に変化があります。見知らぬユダヤ人の男への懐疑心からイエスを「主よ、あなたは預言者だとお見受けします」と告白しています。イエス理解に一歩前進があります。(:19)

預言者だとお見受けするあなたへの質問です。

先週、ユダヤ人がサマリア人に偏見を持っていた歴史的背景を説明しました。その中でも特に北イスラエル、南王国ユダのイスラエルの分裂の時代。又、捕囚後のユダヤ人以外の者と婚姻をしたサマリア人への偏見について話しました。そのような中で、ユダヤ人とサマリア人の間には、「礼拝の場所」についての論争があり、この件について反目がありました。サマリア人は、礼拝の場所は「この山」ゲリジム山(アブラハムが最初にカナンに到着した時、祭壇を築いた場所。神が祝福を置いた山、ヤコブの井戸があった場所はシェケムの地)であると主張し、ユダヤ人は礼拝の場所はエルサレム(ダビデが契約の箱を運び入れ、ソロモンの建て上げた神殿。わたしの名をその所に置くと言われた場所)にあると主張しました。どちらも旧約聖書のユダヤ人の歴史においての重要な場所です。

イエスとサマリアの女の対話は、シェケムにあるヤコブの井戸から水を飲んでアブラハムの子孫たちが命を得たことと関連して、「神の祝福される礼拝の場所はどこか」へと転換します。

ここで驚くべき主イエスの答えがあります。

「女よ、私を信じなさい。あなたがたが、この山でも、エルサレムでもない所で、父を礼拝するする時が来る。」(:21)シェケムでも、エルサレムでもない。あらゆる国民が、あらゆる場所で礼拝するときが来ます。南北の統一どころではない。世界中いたるところで、このアブラハムが仕えた、父なる神を礼拝する時が来る!皆さん、まさに、今イエスのお言葉通りに、世界中の、あらゆる場所で、このお方、父なる神を礼拝する時が来ています。ユダヤの宗教に留まらない。世界の人々が神を礼拝する時が、イエス、そのお方の恵みによって、今到来しているのです。

イエスの言われた礼拝とは、今、まさに私達がここで行っている礼拝です。

イエスの言われる、あらゆる場所で行われる、又、今私達が捧げる「霊と真実によって礼拝する」礼拝とはどのようなものなのでしょう。

1、霊と

父なる神との霊的な交わりが、私達の礼拝です。

イエスによって救われるとは、神である主との交わりの回復することです。

十字架の贖いによって私達の罪が赦され、神と私達の隔てが取り除かれ、神との生ける交わりが回復します。これこそが!救われた者の最も大きな祝福であり、その交わりこそが永遠の命です。

イエスによって救われた者とは、神を礼拝する者へと変えられた者たちです。

霊的と対比するのは、肉的なものです。霊的な回復が与えられるまでは、私達は目に見える世界にだけ生きる者たちでした。しかし、今や、目に見えない世界に信仰の目をあげて生きています。どんな目に見えない世界を見ているのは。それが神の国と神の義です。神の支配と、神の一方的な真実です。

神が回復して下さった新しい霊によって、神との交わりをする存在と私達は変えられたのです。

イエス・キリストの十字架の血潮によって罪取り除かれ、救われ、清められた者は、神に受け入れられる、生きた、聖なる者として(ローマ12:1)、神の前にそのような者とされて、神の御前に近づき、立つことができます。本来神の前に立つことの出来ない罪に穢れた者ではありますが、礼服を、キリストを着せていただいて、仲保者イエス・キリストを通して、その名によって、神の前に出る、これこそ霊的な礼拝です。

ここは、神である主との会見の幕屋です。今、この時が、神との出会いの場、人格的な、霊的な交わりの時となりますように。

ここで私達が知りますことは、「渇くことのない生ける水を受ける」とは、神である主と結びから来るものであり、霊的な交わりであることを知ります。神との交流が回復された私達は、一生涯、とこしえに途絶えることない神の恵みを受け続けます。永遠の命に至る生ける水が注がれ続きます。そして、それは自らに留まることなく、周りへとあふれ流れていきます。

2、真実をもって

○ 心をこめて礼拝します

心をつくし、思いをつくし、知力を 精神をつくして主なるあなたの神を愛せよ(マタイ22:37、申命記6:5) 

○ 最上の献物をもって礼拝します

最高の賛美。最高の献げ物。心をこめた供え物。自分自身のからだ、全てを献げて。

神はこのような礼拝者を求めておられます。

そのイエスのことばを聞き、最後にサマリアの女は言います「私は、キリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています。その方が来られるとき、私たちに一切のことを知らせてくださいます」

イエスは言われます「わたしがそれです (エゴーエイミ)」

私を救って下さるメシアは誰ですか。イエス・キリストです。

私に渇くことのない生ける水を与えて下さるのは誰ですか。イエス・キリストです。

「わたしがそれです」

サマリアの女は水がめをそこに置いて町に行き、人々に告げます。人目を隠れて水を汲みに来ていた女が、水がめをおいて、急いで…。「さあ、見に来てください。私のしたことすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかも知れません」ここにもサマリアの女の変化があります。人目を避けていた女は、大胆に町の人々に語ります。そして、預言者であるとお見受けしますから、サマリアの女のイエスへの思いは、「メシア(救い主)とお見受けします」に変化しています。

私達も喜びと驚きをもって、家族に、友人に、職場の者に、人々に、自らの歩みを通してこう語りましょう。

さあ、あなたも見に来てください。私のことを全てご存じで、「永遠の命に至る生ける水」を私に与えて下さったお方がいます。このお方こそ、私の、そしてあなたを、罪と暗闇の中から救い出して下さる救い主です!

竹田広志's Ownd

千葉県八千代市勝田台7-27-11 電話 0474-84-5045 牧師 竹田広志

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