9月3日(日)礼拝説教全文

「目を上げて畑を見なさい」ヨハネ4:31~42  

救霊への熱いメッセージ(イエスのおこころ)

イエスに従って生きるとは、私達の人生にイエスが伴って下さるというよりむしろ、イエスの働きに私達が付いていくというものです。それはイエスの歩まれる道のうしろです。

「神のみこころを行い、その業を行う事こそ、私達の霊的な食物です。」とイエスは言われています。

イエスとサマリアの女の記事の続き③

イエスとサマリアの女の対話を2度に渡って読みながら、イエスの愛は人と人とのどのような高い中垣も乗り越えていく事を知りました。

「生ける水」について、ヤコブの井戸のそばで、決して渇くことのない「永遠の命に至る生ける水」の話題から、「まことの礼拝者」について、礼拝する場所はこの山でもエルサレムでもなく、世界中のあらゆる場所で父なる神を礼拝する時が来て、「霊と真実の礼拝者」というテーマで読んで来ました。

サマリアの女に対して、「あなたの言うキリスト、それば私だ」と言われる言葉を聞いて、水がめを置いて、人々にイエスを伝える為に町へ走っていく彼女の姿がありました。

本日の箇所

イエスと弟子達との会話であり、又、サマリアのシカルの町のリバイバル(霊的覚醒・復興)が起きたことです。

サマリアへの宣教はイエスにとってどのようなものであったでしょう。又、弟子たちはサマリアで神の国を伝えるイエスをどう思ったでしょうか。

本来イエスの宣教の対象はユダヤ人です。イエスは神のご計画としてご自分が遣わされているのはユダヤ人であるという明確な意思の下、宣教の働きをされています。救いはユダヤ人から来ます。まずは、神の選びの民ユダヤ人なのです。

では、イエスにとって異邦人、又この、ユダヤ人と異邦人の混血であるサマリア人についてどのように思っておられたでしょうか。彼らもユダヤの血を継ぐ者たちです。イエスはサマリア人の願いに応えて、「二日間滞在された」とあります。私はこの二日に、イエスの杓子定規ではない、憐れみの大きさを感じます。

サマリアへの宣教は、ユダヤ人である弟子たちには困難すぎて、考える事さえできなかったかも知れません。私達も同じです。

1、知らない食物

買出しに行っていた弟子たちが戻り、イエスに食べ物を差し出しますと、イエスは「私にはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われます。サマリアの女との対話も「水」で始まりました。肉体の渇きを癒す水と霊的な渇きを癒す生ける水。そして、イエスの言われる「あなたがたの知らない食物」」も、腹を満たす食物ではなく霊的な食物であることがわかります。

種蒔きと、収穫にたとえて、イエスはご自身のみこころを語られます。

あなたがたの知らない食物、私の食物。私の与える水、渇くことのない水、生ける水、永遠の命に至る水。

水にしても、食物にしても、それらは私達の力となり、命となるものです。それは、命、満たし、喜び、生きる力となるものです。

イエスは、「あなたがたの知らない食物」とは、「父なる神のみこころを行い、その業を成し遂げること。」と言われています。(:34)皆さん、私(たち)にとってイエスの宣教のわざに参加することが私(たち)の食べ物だ、と言われます。

イエスのみこころを行い、人々の救いの為にイエスと共に働く事、労することこそ、霊的食物です。私達の信仰の道を、生きる力を活気づかせるものなのです。

自分の生活、自分の信仰、自分が慰められ、自分が励まされ、自分が満足することだけ追い求めている信仰は、いつしか満たされない、渇いた心になっていきます。  * 死海とガリラヤ湖のたとえ(よく使われるたとえ)

皆さんは活き活きとしたクリスチャン生活を歩みたいですか。それならば、神のみこころを行い、あなたに与えられた神の業を成し遂げることです。イエスの弟子たちのように、イエスの働きに参加することです。イエスと共に救霊に燃やしていただき、人々の救いの為に、神の国の為に働くことこそが、私達の霊的食物です。

2、目を上げて畑を見なさい

イエスは「目を上げて(神を見上げて)畑を見るが良い」と言われます。

下を向いて問題や困難をばかり見ているのではなく、目を上げて、畑を見るが良い。すでに色づいて刈り入れを待っている。

私達は家族への伝道、又、日本の宣教を荒野であり、なんと困難であろうかと見ています。イエスはそうは言われていません。「すでに色づいて刈り入れを待っています。目をあげなさい!」

宣教の働きとは、福音を、神の祝福を携えて種を蒔き、そして刈り取ります。ある者は種を蒔き、ある者が刈り取ります。

神のことばが蒔かれると、すぐに刈り入れへと続く事実に目を向けさせます。

サマリアの女が水がめを置いて走って行ったその町は、既に種が蒔かれて、色づいて刈り入れを待っていました。かつて多くの預言者(旧約の)たちが、神のことばの種を蒔いてきました。イエスによって、イエスを信じ、救いを受ける刈り取りの時が来たのです。永遠の命に入れられる実を刈り集める仕事に携わるようになります。

サマリアの女はイエスに出会いました。シカルの町の人々はサマリアの女から聞いてイエスのもとに来て、そして自分でイエスに親しく聞きました。

最初はサマリアの女の証言によって信じた彼らでしたが、今や、直接自分で聞いて、イエスがまことの救い主であることを知って、信じました。

イエスはユダヤ人、サマリア人だけではなく、全世界の全ての人の救い主です。

「本当に世の救い主であると分かったからである(:42)」

3、刈り入れの出来事

弟子達が思いもしなかった状況が目の前にあります。サマリアの人々が回心していくのです。驚くべき神の恵みです。

「難しい、無理だ、困難だ」ではありません。

福音の種を蒔きましょう。収穫の束を刈り取りましょう。そして種蒔く者も、刈り取る者も共に喜びましょう。

私たちはこの喜びを私たちのこの一回限りの、神に与えられた人生において経験したいものです。

結:イエスのおこころを受け止め、イエスと共に労すること(みわざを成し遂げること)が私たちの霊的な食物です。

竹田広志's Ownd

千葉県八千代市勝田台7-27-11 電話 0474-84-5045 牧師 竹田広志

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