9月17日(日)礼拝説教全文

「イエスの言葉を信じる」  ヨハネ4:43~54

ヨハネは、イエスの生涯を書くにあたって、単に偉人の伝記を綴ったのではありません。

生ける神の御子が、この地上に降りて来られて、私達の間に住まわれ、私達の間を歩まれました。

イエス・キリストのその御業(奇跡)とことば、その生涯は、まさに神の御子としてのしるしです。

素晴らしいこの福音・イエスの生涯を知らせ、これを読む者が、この御子イエスを信じて、救われるためにヨハネはこの書を書きました。これを読む者が、イエスを信じて、罪の赦しを得、神の子供とされ、永遠の命を持つためにです。その目的のためにこの書は書かれています。(20:31)

(:43~45)

サマリヤに二日間滞在された後、イエスと弟子たちは、ガリラヤへ向かいます。

ガリラヤのナザレがイエスの育った故郷ですが、「預言者は自分の故郷では敬われない(:44)」(参考:マタイ13:53~58)とイエスご自身が言われた、ガリラヤです。 

エルサレムで宮きよめと、数々のしるしを行われ、サマリヤ(サマリヤでは人々が主イエスを信じました)を通って再びガリラヤへ行かれます。

エルサレムでの過ぎ越しの祭りにガリラヤからも多くの人々が参加して、イエスのなさったしるしを目撃した人も多く、そういうわけで、ガリラヤの人々はイエスを歓迎しました。

(:46~54)の本日の箇所は、ガリラヤ地方の王ヘロデの王室の役人の息子をイエスが癒されるという記事です。これはガリラヤで行われた「カナの婚礼」に続く、第二のしるし(:54)とあります。 

ヨハネによる福音書には、イエスの復活の記事を除いて、イエスの成された7つのしるしがあります。

7つのしるしとは、多くのしるしの中の7つです。(20:30~31、21:25)

1) 水をぶどう酒に変える奇跡 ・・・ 2-1~12

2) 王室の役人の息子の癒し ・・・ 4-43~54

3) 安息日の癒し(38年間病気にかかっている人がベトザタの池で癒される) ・・・ 5-1~18

4) 5000人の給食 ・・・ 6-1~15

5) ガリラヤ湖上の歩行 ・・・ 6-16~21

6) 生まれつきの盲人の癒し ・・・ 9-1~41

7) ラザロの生き返り ・・・ 11-1~45

8) イエスご自身の復活

ヨハネが記す、イエスのしるしとは、救い主・キリストとしてのしるしです。

奇跡ではなく…「しるし」と記す理由 目をみはる主イエスの奇跡を記すのが目的ではなく、このお方が神のひとり子、キリストであることを示す「しるし」という意味があります。

従って、しるしの後に、教えと論議が続き、イエスを信じる信仰の意味が明らかにされていきます。

カナの婚礼(第一のしるし)との共通点

主は人の求めに対して最初は拒否しておられるように感じます。しかし、主は修正された2度目の求めに対してお応えになられています。

いつものように息子イエスに頼んだ母マリア

しかし、彼女は引き下がる事なく、「あなたの言う事になんでも従います」と修正しました。

本日のここでも役人に対して「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり決して信じない」と言われました(:48)。多くの人々は、主イエスに信頼、あるいは期待する信仰よりも、むしろ、しるし、奇跡、癒し、目に見える驚くべきことに関心があります。 イエスを信頼し、信じた結果しるしを見るのではなく、しるしを見て信じます。私達にはそのようなご利益があってそれを信じるという弱さがあります。

* イースターのメッセージで今まで何度もイエスの言葉を聞きました。「見て信じたのか、見ないで信じる(イエスを信頼する者)は幸いである。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」ということばです。

イエスを信じる者こそ、イエスが、神の子、救い主であることを知るのです。

役人は引き下がることなく、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と懇願しました。(:49)

大事なのは物事が起こることよりもむしろ、イエスに対する期待・信仰であります。

いずれにもあわれみをもって応える主イエス

「帰りなさい。あなたの息子は生きている」(聖書協会共同訳)「帰って行きなさい。息子は直っています」(新改訳)(:50)」。「カファルナウム(カペナウム)まで来てください」と懇願した役人でしたが、しかし、「来てください」の一辺倒ではなく、彼はイエスのことばを信じて帰って行きました。

「その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った」(:50)

役人は、自分の息子の癒しの為であれば、何でもする勢いだったでしょう。どうしてここで彼は、尚も強いてイエスに求めずに、元来た道を一人帰ったのでしょう。

その理由を「イエスの言われた言葉を信じて」という一点に集約することができます。

イエスを信じるとは、イエスのことば(神のことば・聖書)を信じることです。それが、御言葉信仰です。

息子が直ったことの確認もなく、しるしと不思議を見ることなく、信仰をもって帰って行った(:50)。

「信仰とは望んでいる事を確信し、まだ見ていない事実を確認することです(ヘブル11:1)」

神の祝福、「みこころが天に成る如く地においても」の御国の祝福は遠くて手が届かないように思えますが、信仰の手を伸ばして、私達はそれを受け取ります。

* 中田重治の説教 「『信じる者は救われる』 イエスを信じる者は救われる。昔も今も変わりはない。難しいことを言うのではない。信じる者を主イエスが救って下さるのだ。」

イエスのことばには力があります。イエスが言われたとおりに、息子は「言われたのと同じ時刻に」治った。(:52)とあります。

そして、父親である役人自身と、彼の家族もこぞって信じたとあります(:53)

信仰とは何でしょうか。イエスのおことばを信じて、踏み出すことです。

竹田広志's Ownd

千葉県八千代市勝田台7-27-11 電話 0474-84-5045 牧師 竹田広志

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