9月24日(日)礼拝説教全文
「良くなりたいか」 ヨハネ5:1~9
協会共同訳聖書見出し ベトザタ(ベテスダ)の池で病人を癒す
ヨハネの記すイエスの成された第三のしるしと、安息日にイエスが癒しを成されたことについての論争(安息日論争)があります。イエスの成される奇跡の出来事は、神の御子、救い主としての栄光を現す「しるし」です。
第三のしるし(:1~9)
再びイエスは、祭りに参加する為に、ガリラヤからエルサレムへ上られます。
ベトザタ「あわれみの家」のと呼ばれる池。その池の周囲に5つの回廊があります。羊の門の近くで、自然のままの池というより、人口の溜池のような場所です。
そこには、大勢の病人が伏せっていました。病人の集まっている(病院のような)場所であり、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが大勢横たわっていました。
どうしてその池に人が集まっていたのかと言いますと、その理由は「水が動くのを待っていた。み使いが池に降りて来て、水を動かす。水が動かされた後最初に入ったものは、どんな病でも癒される」というまことにおとぎ話にでも出てくるものに、人々は期待をもってそこにいたのです。おそらく、間欠泉のようなものが時折湧き出て、水が動いていたのかも知れません。思い込みや、その間欠泉の効能によって、病気が治った人がかつていたのかも知れません。
ベトザタの池には、一種独特な異様な風景があり、病める者達の集団、気持ちもすさみ、萎えてしまっている人々の絶望感が漂っています。
その中に38年もの間、病気にかかって、5つの回廊のひとつに体を横たえたままでいた人がいます。絶望の日々を過ごしていた人です。38年という年月は、彼の気力も希望も奪い取っていたでしょう。その目は生気のないものだったのではないかと思います。
なぜ彼なのか。多くの病人の中で、イエスは彼に目を留められます。
長い闘病生活。自殺の第一位、病気。治らない病。希望を先に持てない。痛みと不安の日々の中を、回復にではなく悪化に向かって進んでいく苦痛。治る見込みが少しでもあるならばともかく。人は何がなくても、希望があれば生きていけます。
また、彼は孤独であったでしょう。
「水が動く時に、わたしを池の中に入れてくれる人がいません。行こうとすると、他の人がおりていくのです」順番も何もない。我先に降りていく病人たち。私を入れてくれる人がいない。熾烈な競争。友がいない。孤独。病気とともに、友が離れていく孤独感もあったかも知れません。
* 老人施設で。お年寄りの多くが、家族が来るのを待っているが。それぞれの家族は自分達の生活に追われていて、施設に預けっぱなし。その中での孤独感。
人は何がなくても、真の友、家族がいれば生きていけます。
イエスは、その男のかたわらに立ち、見て、知って(:6)
そのかたわらに立ち、彼を見て(彼を見て…(:6)、彼のこれまでの人生の全てを見て、その苦しみもすべて見て…。彼をよく知っている旧友、理解者の様に彼を見て(長い間伏せっている、病気を患っているのを知って、それは決して人の知ることのできない事ではありますが。
イエスは彼に向かって「良くなりたいか」と言われます。38年間病気で苦しんでいる人に普通言う言葉ではありません。
彼の無気力を呼び覚ますようにして、「良くなりたいのか」というイエスの言葉。良くなりたいという心さえも萎えてしまっている男がいます。しかしこれは、彼の希望をもう一度呼び起こす言葉です。
「良くなりたいです」と彼は答えれば良かった。しかし…「誰も私を助けてくれない。水が動くと人々は我先にと水に入っていきます」と彼は言います。
イエスは、彼のその言葉に何を思われたでしょうか。
イエスの病人の癒しの記事には「その信仰をご覧になって」「あなたの信仰があなたを救った」という記事が多くあります。先週も「イエスの言葉を信じて」というのが説教のテーマでした。イエスに対する信仰によって癒しをいただく人がいます。しかし、彼の返答はイエスへの信頼の言葉ではありません。
その彼にイエスは「起きて、床を担いで歩きなさい」と言われます。
イエスは何ゆえに、彼に神の癒しの祝福をお与えになったのでしょうか。
安息日にイエスが病人を癒された記事が多くあります。(ルカ6章,13章,14章参考)
ルカ13:10~17に、イエスが安息日に腰の曲がった女を癒される記事があります。そこには「この女はアブラハムの娘なのに、18年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であってもその束縛から解いてやるべきではないか」とあります。38年もの間、彼の抱えていた苦しみをイエスはご覧になられて、イエスの心が動かされ、可哀そうにという思い、憐れみをかけられたことがわかります。
神は私達の信仰をご覧になられて、それにお答えくださる事も多いですが、神のみわざの発動は、神の憐れみ・愛が中心です。
「起きて、床を担いで歩きなさい」すると、その人はすぐ良くなって、床を担いで歩き出した。38年、横たわり、歩くこともままならない彼が、すぐに。ただちに。
神の解放・救いは、徐々にではない。すぐに、ただちにです。イエスのみ腕は、ただちに、救いを求める者に伸ばされます!そして、ここでも私達が知りますのは、38年間病に縛られていた彼を癒し、立たせたのは、イエスの言葉、力ある 権威あるお言葉でした。
イエスは、私達の人生のかたわらに立ち、見て、知って、それだけではない。力ある救いを与えられます。
それが、私達の救い主、イエス・キリストです。
私たちは時として、希望さえ見失ってしまうことがあります。それはあきらめであったり、絶望であったり、孤独であったり、時に生きる気力さえなくなってしまうこともあるかも知れません。
しかし、イエスに望みをおく者は決して失望に終わることがありません。
この書が書かれたのは、この書を読む者が、イエスが神の御子、救い主であることを知り、彼を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を受け取るためです。
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