10月8日(日)礼拝説教全文

「神の御子としての権能」 ヨハネ5:18b~30

聖書協会共同訳見出し 御子の権威

先週の礼拝の聖書箇所では、イエスが安息日に「床を取り上げて歩け」と仰って病人を癒したたことで、ユダヤ人たちは、イエスは安息日を破った、としてイエスを非難します。そして、イエスへの憎悪・迫害の理由を、安息日を破っただけでなく、「神を自分の父であると言い、自分を神と等しい者とされたからである」(:18)と付け加えています。

「私の父は今もなお働いている。だから、私も働くのだ」とイエスは言われました。

天地を造られた神を、アブラハムが、モーセが、ダビデが礼拝してきた神を、イエスは「父」と呼ばれます。弟子たちにも、祈る時にはこのように祈りなさいとイエスは教えられました。「天の父(アバ;親しい呼び名 お父さん)よ」。弟子たちにとっても衝撃的であったと思います。神である主を「父」と呼ばれるイエスを弟子たちはどのように思ったでしょう。又、当時の宗教的指導者たちはどのように思ったでしょう。軽率であり、きっと神を冒涜していると思ったことでしょう。

イエスが神である主を「父」と何度も呼ばれるのは、まさに、イエスが神の御子であることを明確に示しています。とても大切なことですが、イエスがこの世に来られ、ご自身が神の御子であることを示されなければ、私達は神の御子イエスというお方を知ることはできませんでした。又、イエスが「別の助け主」なる聖霊について教えて下さらなければ、聖霊なる神を知ることはできませんでした。神である主が三位一体のお方であるという真理を開いて下さったのはイエス・キリストです。旧約の時代に隠されていた神である主に関する奥義は、イエスによって新しく開かれました。イエスは神であり、神と等しいお方です。

「そこでイエスは彼らに答えて言われた」とありますので、「神を自分の父であると言い、自分を神と等しい者とされた」とイエスを非難するユダヤ人に対してのイエスの直接の回答の言葉として読むこともできますが、ヨハネがイエスの生涯を振り返って、ご自身が神の御子としてどのように人々に語られたのかを、十字架と復活を目撃し、ペンテコステの経験を受けた者として記していることもわかります。4つの福音書が完成し、人々に読まれる前に、イエスの語録集(Q資料と呼ばれている)のようなものがありました。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネにおいても、その語録集が、同じイエスの言葉として、それぞれの福音書に記録されているという学説もあります。そういう意味では、福音書のイエスの言葉が同じなのは、とても自然なことかと思います。

ここで、イエスは父なる神とご自身との関係を教えておられます。 父の御業をされる権能

「よくよく言っておく」①(:19~20) イエスが大事な教えをされる前に仰る言葉です。

父がなさることを見て、子が行います。子は自分からは何もすることなく、父がなさる事を、何でも子がその通りに行います。(自分からは何もすることをせず、父のなさる通りにする)それはどうしてか。父が子を愛して、ご自分のなさる事をみな、子にお示しになるからです。

このイエスの言葉の中には、父なる神の御子イエスに対する愛と、御子イエスの父に対する全き服従があります。完全な愛と、その愛に対する完全な服従です。御子は父のみこころを知り、その御業を完全に成し遂げます。御子は父の愛に支配されているので、全ての働きにおいて、父なる神の愛を表しています。御子は、この父なる神との関わりを離れては、御業を何一つ行われません。私達とイエスとの関係もそうです。「私を離れては、あなたがたは何もできない」(ヨハネ15:5)とイエスは言われます。何もできないというのは、神の御業は何一つできないという意味です。

「また、…」(:20~23)(:27~30)

父は御子に全ての権威・権能を委ねられました。

イエスはその生涯で数々の神の御子の栄光のしるしを行われましたが、「最も大きな驚くべき業」は、御子イエスの復活の出来事です。

「父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、自分の望む者に命を与えます。」イエスをよみがえらせた父なる神は、死者を復活させて命を与えるお方ですが、復活の命を与えることを子に委ねられました。また、父自らは誰も裁かず、その裁きを行う権能を子に委ねられました。

全ての者が父を敬うように、御子も全ての者が敬うべきお方であり、礼拝を受けるべきお方であり、ほめたたえられるべきお方です。アブラハムもモーセも、ダビデもエリヤも、使徒たちも礼拝を受けるべき者ではありませんが、イエスは神の御子として、ほめたたえられるべきお方です。

「子を敬わないものは、子を遣わした父をも敬わないことになる。」とイエスは言われます。

「よくよく言っておく」② (:24) (よみがえりの、永遠の)命を与えるイエスの権能

「私の言葉を聞いて、私をお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁きを受けることがなく、死から命へと移っている。」

罪の赦し、滅びからの救い、永遠の命は、イエス・キリストが、イエスを信じる者にお与えになります。

イエスのことばを聞いて、神を信じる者は、永遠の命を持ちます。イエスのことばを信じるか、信じないか。信じる者は、死から命へ移され、神の裁きに遭うことはありません。

「従って、今や、キリスト・イエスにある者は罪に定められることがありません」(ローマ8:1)

律法を守り行う者は命を得、律法を守り行わない者はさばきを受ける、神の戒めを守って正しく生きる者ではなく、イエスを信じる者は命を得、信じない者はさばきを受ける、というイエスの生涯を通しての福音の言葉を信じて生きることです。

神である主がお遣わしになった、イエス(の言葉)を信じる者の祝福がどんなに大きなものでしょう!

よくよく言っておく③ (:25) 

死人(罪によって、神との交わりが断たれていた者、霊的に死んだ者)が神の子の声を聞く時が来ました。

そして、聞く者は生きます。罪の中に死んでいたが、主イエスの十字架の贖いによって、その罪が取り除かれ、イエスの復活の力によって、よみがえる。真の命、神の命、永遠の命を得て、生きる者とされるのです。今、その時が来ました!イエスによって「救いの日」が来たのです!

神がいのちを与えるお方であるように、子はご自分を信じる者に命を与えられます。

終末に裁き主として立たれる人の子(:27~30)   裁き主として裁きを為される権能

イエスはもう一度、「父は裁きを行う権能を子にお与えになった」と宣言されます。22節と同じ言葉です。

「父は裁きを行う権能を子にお与えになった。」(:27)

イエスを信じる者は裁かれることがなく、信じない者は裁かれます。

「子は『人の子』だからです。」(:27)ダニエル書7章13~14節

終末の預言にある、「天の雲に乗って来られ、永遠の主権者として全ての国民がひれ伏し、仕えるお方です」

終わりの日に、この人の子、永遠の主権者が裁きを行われます。

その時が来ると、生きている者も、死んだ者も、人の子の前に立ち、裁きを受ける者と命を受ける者とに分けられます。

イエスを信じる者は永遠の命を得るために復活し、信じない者は、さばきを受けるために復活します。

「善を行った者は・・・、悪を行った者は・・・・」とありますが、イエスが正しく裁かれます。イエスは父の御心を行うからです。父の御心とは、私達の罪の為に十字架に掛かって死なれ、三日目によみがえられたご自身の独り子イエスを私達が信じることです。あなたが救いを受ける為に、父はご自身の独り子イエスを、この世にお遣わしになったのです。

竹田広志's Ownd

千葉県八千代市勝田台7-27-11 電話 0474-84-5045 牧師 竹田広志

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