10月15日(日)礼拝説教全文
「人からの栄光(栄誉)か、神からの栄光か」 ヨハネ5:31~47
聖書教会共同訳見出し イエスについての証し
イエスが神の御子であり、神と等しい者であることを証し(証拠づける)するもの。
イエスの弟子ヨハネは、イエスと共に生活する3年間にイエスのなされた数多くの業を目撃して、まさにこれらは神の御子の「しるし」であり、神の御子でなければ、人はこのような業を誰も行うことはできない、と記しています。
彼はイエスのなされた「しるし」を厳選して7つ記しています。(復活を含めては8つ)5章の記事は、ベトザタの池で38年間床に臥せっていた男を癒した第三番目の「しるし」です。それは安息日の出来事でしたので、「安息日を破った」とユダヤ人が非難する中、イエスはご自分がどのような者であるかを彼らに語っておられます。
ヨハネの記すイエスの生涯の構成は、イエスのしるしとそれに続くイエスの言葉、または、イエスの言葉としるし(行為)です。つまり、イエスの語られる言葉が真実であることを、イエスのなされる「しるし」(行為)が実証します。
本日の聖書のこの個所は、直接的にはイエスを信じない者、反対者に向けて語られたメッセージです。(特に人からの栄誉を求める宗教的な指導者たちに対して。)
そして、世間や周囲に対する体面・立場・名誉、また、世間からの評価ばかりを求める私達も心して聞くべき言葉です。
「イエスは父なる神から遣わされた神の御子・救い主である」と証言するのは何によるのでしょうか。
イエスは自分だけで自分を証しするのであれば、その証しは真実ではないと言われます。証言は2人、または3人の証言によって認められるものです。(第二コリント13:1 裁判における証言)
そして、イエスは、「私は人間による証しは受けない」(:34)「私は人からの栄光は受けない」(:41)と言われます。イエスは人からの証言、人としての地位や名誉、人から認められることを求めておられません。人からの証し、栄光・栄誉ではなく、神からの証言、栄光を求めるお方です。(:44)
* ヨハネ2:23~25 イエスはご自身を人々にお任せになりませんでした。誰からも証ししてもらう必要はありませんでした。
では、イエスを「父なる神から遣わされた神の御子・救い主」であると証言するものは何でしょうか。
1、バプテスマのヨハネの証言による(:33~35) 人からの証言は必要ないが…
2、イエスのわざによる(:36) バプテスマのヨハネの証言よりもすぐれた証言
3、父なる神の証言による(:37~38) 最も大いなる証言
4、聖書の証言による(:39) 旧約聖書における律法と預言者の証言
モーセの証言(:45~47)
モーセは神から、神の戒めである律法を受けました。イスラエルが神の民として生きる為に、神から律
法を授かったのです。律法を守り行うことは、神の民としての誇りでもあります。しかし、「その律法が
あなたがたを訴える」とイエスは言われます。
申命記18:15~22 聖書協会共同訳見出し モーセのような預言者(イエスを指し示す)
真の預言者とは、その言葉どおりの事が起こり実現する人。
そしてイエスは言われます
「私の宣言が真実であることを、バプテスマのヨハネが、私のする業が、聖書が、モーセが、そして父である神が証言している」、「にもかわらず、いのち(永遠のいのち)を得るために、あなたがたはわたしのもとに来ようともしない。」(:40)
今、「あなたが、命を得るために、私のもとに来なさい」という招きの言葉でもあります。
神を愛する者は、神からの栄誉を求めます。イエスを愛する者は、イエスからの栄誉を求めます。人からの栄誉は求めません。
「あなたがたは私を信じません。」(:38)「あなたがたの内には神への愛がありません」(:42)
イエスを信じない、神を愛していないということがどうしてわかるのでしょうか。
なぜならば、イエスを信じる者、神を愛する者は、神からの栄誉、神から褒められることを求めるからです。「しかし、あなたがた(当時の宗教的指導者、イエスを訴える者、イエスを信じない者)はそうでないからです。」
人から褒められたいのか、神から褒められたいのか。これは非常に大切な、自分自身を吟味する質問です。
人は意識的であっても、無意識であっても、人からの栄誉を受けようとし、自分の名前を上げようとします。人からの栄誉を求め、唯一の神からの栄誉を求めません。人は人からの栄誉と、神からの栄誉を同時に求める事はできません。
イエスは人から栄光を受けるにふさわしいお方です。
しかし、イエスは、人からの栄誉を求めず、神からの栄誉をお求めになりました。それは父なる神を愛しておられたからであり、父なる神を信じて(信頼して)おられたからです。ここに、イエスの父なる神への愛と信仰(服従)があります。
あなたがたが、人からの栄誉ではなく、イエスが語られて成し遂げられた神からの栄誉、すなわち、罪の赦し・永遠の命を求めるのであれば、イエスのもとに行くことでしょう。そうであれば、「わたし(イエス)を信じたに違いありません。」「私のもとに来たに違いない。」とイエスの言われる通りです。
神を愛する者、神を信頼する者は、神に服従する者、神の僕となって、神からの栄誉(神に喜ばれること)を求めます。あなたはどうですか。
神のもとに、父なる神から遣わされた御子イエスのもとに、命があります。
「あなたがたは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を調べているが、聖書は私について証しをするものだ。」(:39)イエスのもとに永遠の命があります。イエスに命を求めてください。
永遠の命とは、十字架で私達の罪の為にご自身の命を捨て、三日目によみがえられたキリストの命を受けること、命の君であるキリストと共に生きることです。
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