10月22日(日)礼拝説教全文

「イエスの与えるパン」  ヨハネ6:1~15

聖書協会共同訳見出し 5千人に食べ物を与える

イエスは多くのしるし(神の業・奇跡)を成されましたが、ヨハネによる福音書には、その中の7つ(復活を含めると8つ)が記されています。イエスの業は、単なる奇跡ではなく、神の御子、救い主としての「しるし」です。本日は、第四番目のしるしとなります。

これまで、カナの婚礼、役人の息子の癒し、ベトザタの池の38年間病の中にあった男の癒しの記事を読みました。前回の38年間病の中にあった男の癒しでは、その日が安息日であったことから、それに関してユダヤ人たちとの問答があり、イエスがご自身についての大事な教えを話しておられます。

本日は「5千人の給食」「5つのパンと2匹の魚」とか言われる個所ですが、この6章は、パンの奇跡の後に、イエスの与えるパンについての教えがあります。6章全体からこのイエスの成されたしるしをみていきたいと思います。しるしと教え。

この出来事は、4つの福音書に記されていて、若干詳細の違いはありますが、5つのパンと2匹の魚を男性だけでも5千人の人が食べて満腹し、残ったパンくずは12のかごにいっぱいになったという記事です。

同じ記事は、マタイ14:13~21 マルコ6:32~44 ルカ9:10~17 にあります。4つの福音書に記されていることからも、この出来事は、力強く人々の、弟子たちの印象に残ったものであったに違いありません。ヨハネによる福音書だけに、この弁当の出所が、少年の差し出した弁当であったと記されています。

出来事

イエスはエルサレムからガリラヤに戻られ、多くの群衆がイエスについて来ます。イエスは小高い丘(山、町はずれの平原)で群衆に話をされます。そして、日も傾き夕方になろうとしていました。

イエスは、群衆がお腹を空かせているだろうから、「どこかでパンを買ってきて、この人たちに食べさせようか」と弟子たちに言われます。ここでは、「フィリポを試みるためであって」(:6)とあります。

何を試そうとしておられたのでしょうか。

「めいめいが少しずつ食べたとしても、200デナリ(200万円)のパンを買って来たとしても足りないでしょう。」フィリポはそう答えます。どのようにそろばんをはじいて計算してみても、この群衆の数では到底足りません。

ペトロの兄弟アンデレがイエスに言います「ここに大麦のパン5つと魚2匹を持っている少年がいます」

名もないひとりの少年が、イエスに食べていただきたいと「5つのパンと2匹の魚」を差し出したのでしょう。大麦のパン5つと魚2匹です。

当然のことではありますが、アンデレはイエスに言います 「何になりましょう。」

イエスはご自身が何をするべきか、わかっておられて弟子たちを試されます。

私達にはどうにもならないことがあります。手持ちが足りないのです。彼らの答えは、「不可能」です。

しかし、私達が心を留めたいのは、少年が、自分のもっている全て(5つのパンと2匹の魚)を喜んで、イエスに献げたことです。この大きな祝福は、小さな子供の精一杯の、まごころの、純粋な、イエスに食べていただきたい、使っていただきたい、用いていただきたい、という献身から来ていることを、私達は忘れてはなりません。

自分の持っているものは小さなものではあるけれども、イエスに献げる時に、大きな祝福へと変えられていきます。

少年が食べてしまえば、彼一人が満足してそれで終わりですが、イエスに献げられる時に、5千人、1万人、それ以上の人々が食べて満腹するのです。

イエスと共に歩む生涯は、私達の計算をはるかに超える祝福に出会います。

私達はこの箇所で、イエスというお方の何を知ることができるでしょうか。

1、 イエスは人の必要を知っておられます。

パンは人々にとって必要なものです。精神的なものではなく、私達の生活・命に直結するものです。

マルコ6:34~37では、「イエスは大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められ、時もだいぶたって遅くなった・・・弟子たちに『あなたがたの手で食べ物をあげなさい』とお答えになった」と記されています。イエスは私達の必要を知り、満たしてくださいます。

しかし、イエスがご覧になっているのは、単に肉体の空腹を覚えている人々でなく、人の心の、霊的な飢え渇き、父なる神を知らない群衆の姿であることがわかります。

2、 人間の計算と神の計算

二百デナリのパンでも足りない。子供の弁当、5つのパンと2匹の魚ではどうにもならない。

人間的な計算であります。しかし、イエスが共におられることは、私達の計算・勘定をはるかに超えます。

こんなわずかなものが何になるのか。

少年やその家族が食べてしまえば、それで終わりのものです。

私達も自分の手持ちや、能力、状況に目を向ければ、もちろんできない、不可能なのです。

しかし、知ってください。信仰とはイエスに目を向けることです。

* 第一回ユースジャムの会合での証し 全国からの参加者一律10,000円以内の目標。500人の参加者。

3、 イエスの前に献げる

大事なのは、自分にあるものを、必要とされるならば自分で持っていないで、イエスに献げることです。明け渡すことです。少年は自分の持っているもの、5つのパンと2匹の魚をイエスに献げました。

マタイによる福音書では、「それをここに持って来なさい」(マタイ14:18)とイエスは言われます。

私達が神の祝福を受けるのに必要なのは、私たち自身をイエスに献げることです。自分を自分で使えば、5つのパンと2匹の魚はそのままです。

「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。」

イエスが群衆を座らせたのは、彼らがイエスのもとに取りに来るのではなく、弟子たちに配らせる為でした。

「パンを分けられた」は、「パンを裂いて弟子たちに渡し」(マタイ)「パンを裂いて弟子たちに渡し」(マルコ)「祝福して裂き、弟子たちに渡して」(ルカ)とあります。

イエスはパンを裂かれ、人々に分け与えられます。これは同じ6章でこの後に続く、「イエスが与えるパン」に深く関係があります。

4、 あり余る祝福

分けられたパンと魚はおのおのに、少しずつではなく、欲しいだけ分け与えられました。(:11)人々は十分に食べました。(:12)私が私のために掴んでいるものは、私を一時的に満たすだけです。しかし、イエスに献げられる時、私だけではなく、多くの人々がその祝福を受けます。群衆は満腹したのです。欲しいだけ、求めるだけ与えられたのです。

さらにイエスは言われます。「少しも無駄にならないように、余ったパン切れを集めなさい。」群衆が満腹するだけでなく、あり余ったパンは12の籠にいっぱいになりました。

現代の私達の中に、この出来事は起こり得るのでしょうか。ひとりの小さな献身が、多くの人々への祝福につながっていきます。それが、イエスの成される御業です。

私達の生活の中にも。教会の歩みの中にも。日本や、世界の祝福にも。

私達は自分が持っている5つのパンと2匹の魚をイエスに献げましょう。

竹田広志's Ownd

千葉県八千代市勝田台7-27-11 電話 0474-84-5045 牧師 竹田広志

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