10月29日(日)礼拝説教全文 説教者:大西一功師

「完全な者となりなさい」

マタイ5:43~48

序:マタイ福音書5章から7章は山上の説教として知られています。イエスが話された教えのうち、マタイは大切なものをここにまとめています。「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。」で始まる八福から始まるキリスト者の性質が記されています。

イエスは「私が来たのは律法や預言書を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」(5:17)と言われました。律法や預言書とは旧約聖書です。イエスは旧約聖書に書かれている、神の約束を実現するために来たのだと言われています。

その中に神がイスラエルの民に守れと命じられた戒めがあります。代表的なのが十戒ですが、イスラエルの民はそれを守ろうとして守れませんでした。しかし十戒を厳格に守り行おうとしていた人たちがいます。それが律法学者やパリサイ人と言われる人たちでした。彼らはこの律法を守るための、非常に細かい定めを決めていました。それを守ることが神様の前に正しい歩み(義)であると人々に教えていました。

イエスは自分に従ってくる人達に「あなたがたの義が律法学者やファリサイ人の派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることはできない」(5:20)と言われました。「義」とは「神の目に正しい」ということです。「あなた方」とはイエスに従っている人達(キリスト者)です。「律法学者やパリサイ人の義」とは律法学者やパリサイ人が「教える正しい歩み」です。「天の国」とは「神の国」で、「神を信じて従う歩み」で、神の支配を受けることです。ファリサイ派の人は戒めを守るために規則を作り、人々に厳格に守ることが神の前に正しい歩みであると人々に教えました。しかし、イエスは、彼らは律法を表面的に守るように見せかけているだけで、彼らは偽善者であると厳しく糾弾されました。イエスは律法の要求は表面的な行いではなく、人の内側、すなわち真の心から出て来る行いが大切であると教えられたのです。そして、21節から律法を守って行うとはどういうことかを解説されました。今日のところはその最後のところです。

イエス・キリストは「『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。」と言われました。「聞いているところである」とは、ユダヤ人が親から子へ、戒めを守るために代々伝えて来た道徳律法です。

ユダヤ人たちは、自分たちは神の民であり、ユダ人以外は神から選ばれていない人であると軽蔑し、敵であると意識的に排除していました。従ってユダヤ人が言う隣人とはユダヤ人同胞のことで、外国人や宗教的儀式を守らない人は罪人であり、敵でした。このような考えは現代でも当然のことと考えられているのではないでしょうか。自分の意見に賛成する人、仲の良い友人、自分に良くしてくれる人を隣人として、自分の意見に反対する人や敵対する人、悪意を持ち、何かにつけて意地悪をする人を敵と考え、そのような人を憎らしく思うのは、律法学者やパリサイ派の人々と同じです。

イエスは敵を「好きになれ」とか「友人になれ」と言っているのではなく、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」と言われたのです。それは「天にいますあなたがたの父の子(神の子)となるためである」、すなわち48節の「あなたがたは、天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者と」なるためです。

イエスは律法を守ることの大切さを19節で言われています。「これらの最も小さい戒めを一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天国で最も小さいものと言われる。」と言われました。そして「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義に勝っていなければ、決して天の国に入ることはできない」と言われました。それから、真の律法を守るとはどのようなことかを説明されたのです。

今日の招詞で聞きましたが、イエスは「第一の戒めは、これである。『心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の戒めはこれである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つに勝る戒めはない」と、「神と人を愛すること」が重要であると言われました。イエスは、隣人の中に敵をも含むと言われ、敵を愛しなさい」と言われているのです。

 45節の後半から48節の間に、イエスは「神の愛」と「人の愛」の違いについて話されました。イエスは「父は、悪人にも善人にも、太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さる」と話されました。「神様はあなたがたが悪いと言っている人、また正しくないと言って敵対している人にも、分け隔てなく太陽を照らし、また雨を降らせてくださる。恵みを給う方である」天の父はそのような方であると言われています。そして46節に「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか」と言われました。「徴税人」とは、税金を取り立てる人です。現在のようにきちんとした役所もない時代です。一般の人が、その地方を治めている領主や総督から、税金を取り立てる権利を買い取り、住民に決められた税金を取り立てて領主や総督に収めます。その時に、徴税人は手数料を決めるのです。徴税人は税金の何倍、何十倍を徴収し、差額を懐に入れます。払えない時には家財道具や家畜などで取りたてるので、人々は彼らをならず者(悪人)と嫌っていました。イエス様は「自分の気に入った者や、自分に良くしてくれる人を愛したからと言って、それが何か報いがあるであろうか」そんなことは「あなたがたがならず者(悪人)だと嫌っている徴税人でもするではないか」と言われました。つまり、あなたたちの愛はならず者(悪人)だと言っている人と同じで、神様の言われる正しいこと(神の義を行うこと)をしているのではないと言われたのです。また47節でイエスは「あなたがたが自分の兄弟にだけ挨拶をしたところで、どれだけ優しいことをしたことになろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。」と言われています。ユダヤ人は、自分たちは神様から選ばれた民であって、ユダヤ人以外を異邦人と呼び、神から選ばれていない人、神を知らない、汚れている罪人であると軽蔑していました。イエス様は「ユダヤ人同士がお互いに友情を示すために、にこやかにあいさつしたからと言って、なぜそれが優れているのだろうか、そのようなことは、あなたがたが罪びとだと軽蔑している異邦人だってしているではないか」と言われたのです。別の言い方をすると、「あなた方が気の合う友達だけとあいさつしたところでほかの人と比べて特別に良いことをしたと言えるだろうか、神様を信じない人でもそれくらいはする」と言われたのです。

イエスは、「あなたがたは隣人を愛して、敵を憎め」と伝統的に聞いてきて、それが神様の子として正しい道だと聞いてきたが、そうではなくて「敵を愛し、迫害する者のために祈る」ことが「神の子としての歩みだ」と言われたのです。イエス・キリストはこの世では全く罪を犯されませんでした。人々の病を癒し、目の見えない人の目を見えるようにし、悪霊につかれた人から悪霊を追い出し、何よりも人々に自分の罪を悔い改めて神を信じるようにと教えて歩かれました。人々はイエスの教えに真実があるとみて、大勢の人々がイエスに従いました。そのようなイエスの働きを見て、時の指導者たちはイエスの人気をねたみ、イエスは神を冒涜したという罪を着せて裁判にかけ、十字架上で殺害しました。イエスは兵士から鞭打たれ、人々からは侮蔑の言葉をかけられ、全く一人で、十字架上で、肉体的また精神的苦痛を経験されました。そのイエスが十字架上から「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」と父なる神に祈られました。イエスは自分を殺害しようとする者のために「父よ、彼らをお赦しください」と祈られたのです。イエスは「あなたの敵を愛し、迫害する者のために祈れ」と言われましたが、ご自分の身を通してそれを示されたのです。イエスが死なれたとき、そこにいた兵士は「本当にこの人は正しい方である」と言ったと聖書に記されています。

 「わたしの隠れ家」という本があります。映画にもなりました。これを書いたのはコーリー・テンブームというオランダ人女性です。第二次世界大戦時に家族と共に約 800 人 のユダヤ人及び反ナチス活動家の命を救った人です。ある日、彼らは密告によって家族全員が逮捕されました。父親と兄は獄中で死亡しました。コーリーが52才の時でした。7歳年上の姉のベッツィは、ドイツのラベンスブルッ ク強制収容所で亡くなり、コーリーだけが奇跡的に釈放されました。終戦後、彼女は各国を回り、神の赦しや人との和解について伝道活動をしました。ある日、ドイツのミュンヘンの教会で礼拝後、一人の男性が来ました。その男は忘れもしない、ラベンズブルック収容所で最も残酷な看守の一人でした。姉と共にその男の前を全裸で歩かされた恥辱の記憶が甦りました。彼は「わたしはクリスチャンになりました。神が罪を赦してくださることは有難いのですが、あなたの口からも聞きたいのです。赦してくれますか?」と言い、手を差し伸べました。 幾度も赦しの大切さを語ってきたコーリーの心は凍ってしまいました。怒りと復讐に燃えた思いが心の中でグルグル回ります。同時に、自分の罪深さを痛感します。キリストがこの男性のためにも死んでくださった。イエスは自分を殺害する者を赦されたが、あなたはそれよりも尊いのかと自分を責めました。コーリーは手を上げるように必死に努力しましたが、できませんでした。心の中で叫びました:「主イエスよ、 わたしはこの人を赦せないのです。主の赦しを与えてください。」 そしてぎこちなく、ただ機械的にその男性の手を握りました。そうすると、信じがたいことが起こりました。肩に電流が流れ出したかのように、イエスから来る赦しの愛が腕を伝わって走り、コーリーが握手した手に溢れたのです。涙を流しながら彼女は言いました。「兄弟よ、あなたを赦します、心から赦します。」 コーリーはその時のことについて書いています。「それは決してわたしの愛でではないことを悟った。 確かに努力はしたが、わたしには力がなかった。」イエスの赦し、イエスの優しさが与えられたのです。

 イエスは「敵を愛し、敵のために祈れ」と言われました。しかし、生まれたままの人間は「敵を愛し、敵のために祈る」ことはできません。敵を愛するとは、人を完全に赦すことです。イエス・キリストがわたしたちの罪を負って死んでくださったこと、そして無実のイエスを十字架につけた罪を自分も持っていることを認めて、悔い改めてイエスを救い主として信じるとき、私たちの罪が赦されました。人を赦すとは自分の正義を捨てることです。自分の正義を捨てる時、神の義が与えられるのです。私たちは自分の考えや努力で人を赦すことはできません。イエスが私のために罪を負ってくださった、もし今あなたがどなたかを赦すことができないなら、コーリー・テンブームが祈ったように、イエスにその人のために祈ることです。そうすると相手は変わらないけれど自分が神に似た者へと変えられるのです。

 世にはクリスチャンでなくても、全く誠実で温厚で清廉潔白な人はいるでしょう。しかし、自分の敵を赦し、迫害する者のために祈る人がいるでしょうか。キリスト者は神に似た者となるべきです。道徳的に混乱した時代です。私たちは神様から頂いている神に似た性質を日常生活で現すべきではないでしょうか。

イエスは「あなたがたは、天の父が完全であられるように、完全な者となりなさい」と言われました。それは神と人を愛することだと言われています。そして神は私たちがどのような状態であろうとも変わりなく愛され、またすべての人に平等に恵みを与えられるように、私たちも相手がどうあろうとも、人々に神の愛を示すことが神に似た性質であり、完全な者だと言われています。

竹田広志's Ownd

千葉県八千代市勝田台7-27-11 電話 0474-84-5045 牧師 竹田広志

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