11月5日(日)礼拝説教全文

「恐れることはない」ヨハネ6:16~21 「恐れ」についての考察

恐れに飲み込まれてしまう私達   

* よみがえられたイエスが私と会って、最初に言ってくださるであろう言葉2選 「平安があるように(シャローム)」「恐れろことはない」 

並行個所 マタイ14:22~33 ペテロの湖上歩行 「まことに、あなたは神の子です」

 マルコ6:45~52  通り過ぎようとされた  パンのことを悟らず、心がかたくなに

*(参照)嵐を静める(マタイ8:24~27 マルコ4:37~41 ルカ8:23~25)

7つのしるし(多くのしるしの中の7つ 20:30~31、21:25)

1) カナでの婚礼 水をぶどう酒に変える奇跡(2:1~12)

2) 役人の息子を癒やす(4:43~54)

3) ベトザタ(ベテスダ)の池で病人を癒す(5:1∼18)

4) 五千人に食べ物を与える(6:1~15)

5) 湖の上を歩く(6:16~21)

6) 生まれつき目の見えない人を癒す(9:1~41)

7) イエス、ラザロを生き返らせる(11:1∼45)

8) 復活する イエスの復活 (20:1~21:23)

先々週の礼拝でヨハネによる福音書から第四番目のしるし、「5千人の給食」の記事を読みました。5千人の給食の後、「イエスは独りでまた山に退かれた」(:15)とあります。4つの福音書とも5千人の給食の後に、イエスが独りで祈っておられたことを記しています。独りで祈られた理由は、5千人の給食のしるしが人々を熱狂させ、彼らがイエスを王にするために連れて行こうとしていたからである、とヨハネは記しています。

大きな神の働きの後には、反対・逆行する力が働きます。リバイバルの後に栄誉が神に帰されず、大きな危機が訪れることがあります。大きな働きの後に、燃え尽きてしまうこともあります。

イエスは、神の栄光をご自身が受け、人々に担ぎ上げられる事を退けられました。又、どんなに多忙であっても、一人で祈る時間を持っておられたことがわかります。

世の喧騒から離れ、静まって、神である主と時間を過ごすことは、神があなたに求めておられる事です。そして私達にとって、無くてはならない癒しと祝福の時間です。

本日の、イエスの第5番目の(神の御子の)しるし「湖の上を歩く」は、マタイ、マルコ、ヨハネ、3つの福音書に記されています。それぞれが少し違った視点で記されています(上記 並行箇所)。5千人の群衆を解散された後、イエスは独り山に退かれ、弟子達だけで湖の向こう岸へ先に強いて行かせられます。(:15~17)群衆を避け、離れ、身を隠す必要がありました。

弟子たちだけが乗った舟はティベリアス湖をカファルナウム(カペナウム)に向けて出発します。舟が5,6キロ漕ぎだした所で、強い逆風が吹いて、湖が荒れ始めます。

1、逆風の中に置かれる弟子達(:18)

かつてこの湖で漁師であった者が4人もいましたが、帆をたたんで懸命にオールで漕いでいたでしょう。しかし強い逆風で前に進むことができませんでした。以前も嵐の中で、イエスがティベリアス湖で嵐を静められた事がありました(上記 参照)。前日の夕方出発して、明け方になっても向こう岸へ着きません。

漕げども漕げども、前に進まず、疲労と焦りが溜まっていきます。

そのような時、イエスが「湖の上を歩いて」弟子たちのもとへ来られます。

2、イエス、湖の上を歩いて、弟子達の船に近づいて来られる(:19)

夜明け頃、イエスは荒れ狂う強風と波立つ湖の上を歩いて、弟子たちの舟に近づいて来られます。

イエスは悩める者の近くに、傍らに来て下さるお方です。

* イエスは湖畔を歩かれたとか、そこだけ浅瀬になっていた等と説明しようとする者もいます。

3、(ところが)弟子達は恐れた(:19)

マタイとマルコの福音書では、「幽霊だと思って恐れた」とあります。暗闇を恐れ、風を恐れ、波を恐れ、幽霊だと言って恐れます。人は何ゆえに恐れるのでしょうか。

恐れとは、私達の内側・心がまさにこの湖の波のように荒れ狂い、平安が心から弾き出されてしまう事です。一瞬で、平安、安心、勇気、愛、自信、光を失います。

恐れは私達の心から穏やかさを締め出し、支配します。

最近ハロウィンがありましたが、ホラーや、オカルト(映画等)という類のものを好むといいますか、怖いもの見たさでか、人々の関心は絶えません。私達はなぜ幽霊が怖いのでしょうか。それは、得体の知れないもの、怪物への恐怖、死の恐怖、これから自分の身に何か悪いことが起こるかも知れない未来を想像しての恐怖です。 *トイレのドアを普通に開ける。或いは、得体の知れないものがその先に居るかも知れないと想像しながらトイレのドアを開ける

実際、舟を漕ぎ続けて疲労困憊した弟子たちの許に、明け方薄暗い、靄がかかった湖の上を、人の形をした白い影が近づいて来たら、恐れる弟子たちを臆病だと誰も責めることはできません。

私達も、恐れを抱きます。恐れに支配され、闇の中に閉じ込められてしまうことがあります。

どうして人は闇を恐れ、得体の知れぬものを恐れるのでしょうか。時として人であっても、得体の知れぬ者が自分に危害を加えるかもしれないと私達は恐れます。戦争の出来事を目の当たりにする今、いや、人間こそ最も恐ろしいものであるかも知れません。

未来への恐れ 明日が来るのが怖い。

恐れのメカニズム: 恐れは、先行きの見えない未来、得体の知れない未知から来ます。今ではなく、これからどうなるかが怖いのです。幽霊も人間も猛獣も暗闇もそうです。これから自らに降りかかるであろう危険を想像して怖いのです。イエスは「明日のことを思い煩うな」と言われています。

人間関係においても、「明日も厳しい上司と会わなければならない。あの嫌な人と会わなければならない。自分をいじめる、傷つける人と会わなければならない。」そのように未来を想像すると、恐れで外に出られなくなるのです。私達の人生は、恐れを抱く材料で囲まれています。

結、「私である。恐れることはない」(:20)

『私である。恐れることはない』 とイエスが言われます。

この時代の中にあって、今ある私の生活の中にあって、また未来に向かって生きる私達はこの朝、イエスの言葉を聞きます。

繰り返しますが、私達は恐れに支配される者たちです。イエスはその度に、何度も何度も、私達に「恐れることはない」と言われます。イエスのご臨在と力あるそのお言葉は、事実、私達の恐れを締め出します。旧約聖書においても神である主は、イスラエルの民に「恐れるな」(イザヤ41:10、13、14)と何度も言われます。私達が恐れない根拠はここにあります、「わたしはあなたと共にいる」。神である主が、イエスが私と共にいて下さるからです。

イエスを舟に迎えると、すぐに、舟は目指す地に着きます。(:21)

竹田広志's Ownd

千葉県八千代市勝田台7-27-11 電話 0474-84-5045 牧師 竹田広志

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