11月19日(日)礼拝説教全文 説教者:大西一功師

2023年11月19日 勝田台キリスト教会 礼拝メッセージ  説教者:大西一功師

聖書詩編19編1~15

説教題:「啓示される神」

今日は詩編から主の御声を聞いてまいりたいと思います。

「薔薇の木に薔薇の花咲く、なにごとの不思議なけれど。」という詩があります。これは北原白秋という詩人が書いた詩です。白秋は、「薔薇の木に薔薇の花が咲いている様子を当然のこととして見過ごしてしまう人は禍である。実に驚嘆すべではないか。この神秘はどこから来るのか、この驚きを驚きとする心から宗教も哲学も自然科学も生まれて来るのではないか。この真理、この驚き」と記していると伝えられています。

 詩は作者の感動や驚き、また悲しみや苦しみなど心の思いを素直に言葉で表します。詩は、読む人の心に訴えかけ、読む人が詩人の心と共鳴するとき、ある種の力を感じます。白秋は、あの棘のついた薔薇の木から、美しい薔薇の花が一体どのようにして咲くのだろうと感嘆し、そこに不思議な力を感じて、率直に単純な疑問を言葉にしているように思います。

 詩編の作者は、当然のことですが、心に神の臨在という共通の思いを持っています。詩人が心にある喜び、悲しみ、苦しみ、あるいは怒り等の思いを神へ訴え賭け、それを言葉にしたのです。

 詩編19編の1節は表題です。詩編は全部で150篇ありますが、そのうち34の詩篇には表題がなく、「みなしご」詩篇と呼ばれています。ほかの詩篇に表題が付いていて、人名、音楽的な意味を表す言葉などがありますが、詳細は不明です。

今日は詩編19編の内容を三つに分けて考えます。

第一は、2~7節で、自然界を通して示された神の啓示であり、私たちが見ることを通して受ける神の啓示です。(啓示:表し示すこと。人知では知ることのできない神秘を、神自らが人間に対する愛の故に蔽いを除いて表し示すこと。広辞苑6版)詩人は神の創造の御業を褒め称えています。第二は8~12節で、言葉による啓示で、神が聖書を通して私たちに働きかけています。これは私たちの心に受ける啓示です。第三は13~15節で、神の啓示が詩人の霊に働き、詩人(信仰者)が応答した祈りです。

1.自然界を通して示される神の啓示(2~7)

私たちは人の手の入らない自然に遭遇しますと、その美しさに感動を覚えます。神を知らないと、ただ美しいと言う感動しか出てきませんが、神を知る人は、そこに神の創造の御業(栄光)を見ます。新約聖書で、パウロはローマ人への手紙で、「神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性は、世界の創造以来、被造物を通してはっきりと認められるからです。」 (ローマ1:20)と記しています。すなわち、「私たちに神様は見えないが、神のご性質は、神が創造された被造物を見れば、明らかだ」と記しています。詩人は「天は神の栄光を語り、大空はみ手の業を告げる」と謡います。聖書では、「天」は物理的空間である「大空」、あるいは「神の住まい、神のおられるところ」を指します。「神の栄光」とは「現わされた神ご自身の性質(全能の力や聖、義など)」です。天の様々な現象は神の御業を告げ知らせる、そこに神がどんな方であるかがわかるということです。光あふれる昼は被造物が生き生きと活動し、私たちは神の御業のすばらしさを実際に見ることができます。また、3000年前の夜は現在のように人工的な光はまったくありませんでした。現在私たちがプラネタリュムで見るような夜空を毎日見ていたのです。暗い夜空に天の川がくっきりと見え、またに無数の星が輝き、規則正しい動きから人々は星座を見出し、そこに神の御業である自然界の秩序を見出しました。

4節は「語ることもなく、言葉もなく、その声は聞こえない」と出てきます。自然界は何も語りかけません。静かに存在しています。5節では「その声は全地に、その言葉は世界の果てにまで及んだ」とあります。創世記に「神が言葉を発せられるとその通りになった」とあるように、詩人は「神が言葉を発せられるとその通りになり、その言葉の及ばないところがないまでに届いている」と記し、全地に神の言葉が及んだ神の創造の御業を讃えています。そして「そこへ神は太陽のために、幕屋を張った」とあります。何も語りかけない自然界ですが、全世界に創造の御業が行き渡り、神の栄光が満ちました。そして、被造物の代表として、「神は太陽のために幕屋(太陽の通る道:黄道)」を備えられ、太陽が東から出て西に沈む姿は、花婿が着飾った祝いの部屋を出て、凱旋する勇者のように天空をとおり、太陽の光は地球の隅々にまで注がれ、あらゆる生命にエネルギーを注いでいる。太陽は神の栄光を現すものとして、また神の被造物の輝かしい姿だと神を讃えています。

2.言葉で啓示される神 (8~11)

 詩人は信じる者に律法の力(御言葉)がどのように働くのかを記します。神は律法を単なる知識として与えられたのではなく、神を信じる者に及ぼす力であることを示しています。また神は、律法を通して神ご自身の性格、道徳的性格を現されています。ここでは、信仰生活のその時々の状況に応じて、「律法(みおしえ)」「定め」「諭し」「戒め」「さばき」などの言葉が用いられています。8節では、主の律法は完全で、かけたところがなく、弱っている者の心に働きかけ、元気(生命を回復させ)を与えます。また定め(律法と同じ)は、間違いがなく、「無学なもの」(わきまえのないもの、動揺しやすいもの)を賢くするのです。9節では、「主の諭し(主の命じられること)」は「 まっすぐ(正しく)」で人の心に充実した喜びを与えます。また「主の戒め」は「純粋(清く)」、「目を光り輝かせる」(理解力を与える)のです。10節「主への畏れは清く (主を恐れることは清く)で、いつまでも続く」、「主の裁きは真実で、ことごとく正しい」。箴言に「主を恐れることは知識のはじめである、(箴言1:7)」「主を恐れることは知恵のもとである、聖なる者を知ることは、悟りである(箴言9:10)」とありますように、私たちが謙遜になって、神の清さの前にでるとき、私たちの罪や汚れが明確にされ、畏敬の念を抱くのです。そして11節「金よりも、あまたの純金よりも慕わしく、また蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い。」と、それは物質的な食欲を満たすのではなく、心に平安と喜びをもたらすものであり、心を愛で満たす神の祝福です。

3.啓示に応答する信仰者(12~15)

 詩人は「あなたのしもべも、これらによって教えをうけました。これらを守るとき、報いは大きい。」と、詩人は自然界を通して、また言葉を通して与えられた神の啓示によって学びました。そして、主の定められた律法や教えは、金や蜜のような金銭で求められるどんなものにも勝る価値のあるものであり、神の戒め(律法)によって迷わないように警告を受けると同時にそれを守ることによって、大いなる報いを受けると信仰告白をしています。律法は神の御心を示すものです。信じる者に働く大きな力です。神はみ教えを通して、私たちの心に語りかけられます。詩人は神に応答して祈っています。この祈りはイエスを通して現代のキリスト者に対して語られた言葉に現れています。

 詩人は、「誰が知らずに犯した過ちに気付くでしょうか。隠れた罪から私を解き放ってください。あなたの僕を傲慢から引き離し、これに支配されないようにしてください。その時、私は全き者となって、多くの背きの罪から解き放たれるでしょう。」という祈りに導かれました。「知らずに犯した過ち」とはどのようなことでしょうか。例えば、自分では正しいと思ってしたことが誤っていたと言うことです。私たちは罪を犯しやすいものです。私たちは知らずに罪を犯すことがあります。神の臨在を知った者は、主の哀れみにすがり「私の隠れた罪から解放してください」と祈ることができます。また、詩人は「傲慢」にならないようにと祈っています。「傲慢」とは自分の正しさに固執することであり、他者を見下したり、軽蔑することです。

 ルカ18:9~18節に「自分は正しいとうぬぼれて、他人を見下している人々に対してたとえで話された」ことが書かれています。イエスは明らかにファリサイ派の人について「うぬぼれている」と非難されています。自分は正しいと信じていることが本当かどうか、私たちは御言葉によって検証する必要があります。この詩人の祈りは、主イエスが山上の垂訓で言われた「心の貧しい人々は、幸いである。」「義に飢え渇く人々は、幸いである」を思い起こさせます。

15節「私の口が語ることと心の思いとが、御前で喜ばれますように。主よ、わが大岩、わが贖い主よ。」と締めくくっています。「わが岩」とは「確かな、また揺るがない砦」です。詩人は「わが贖い主」である神に、「わたしの口が語ること」、それは「祈り」であり、「わたしの祈りと、心の思いとが御前で喜ばれますように」と祈っています。すなわち「すべての罪から救い、神の御心にかなったものとしてください」との祈りです。詩人は創造主である神がどのように偉大な方であるかを讃え、また神が与えられた律法が、神を信じる者にどのような力が働くかを証しています。また、神が被造物や律法を通して、私たちの心の中に善なるもの、清いものを造られる方であることを告白しています。そして、私たちの心や言葉が神に喜ばれることこそ、「わが大岩、わが贖い主よ」と私たちの平安の源であると信仰告白しているようです。

竹田広志's Ownd

千葉県八千代市勝田台7-27-11 電話 0474-84-5045 牧師 竹田広志

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