11月26日(日)礼拝説教全文 説教者:山下健太修養生

「イエスに託された宣教の使命」 ルカ4:43~44

1.はじめに

みなさんは、「宣教」という言葉にどのようなイメージを持ちますか。どのように考えていますか。「伝道」という言葉もありますが、どのような違いがあるのでしょうか。

皆さんは「伝道」や「宣教」という言葉を良く用いますか。礼拝メッセージの中で、賛美歌の歌詞の中で、また教会活動の中で。なんとなく「キリスト教を宣伝すること」「教えを伝える」、「“外国へ出て行って”、キリスト教を伝える」というイメージが強いかもしれません。聖書が教える宣教とはどのようなものなのでしょうか。私たちは、誰に対して、何を、どのような動機をもって宣教をするのでしょうか。聖書は宣教ということをどのように教えているのか、イエス・キリストの歩みを通して神様からの語り掛けを頂きたと思います。

次週から、いよいよイエス・キリストの誕生の待降節(アドヴェント)に入り、キリスト教界にとっても喜びの季節が到来します。今年は、コロナも落ち着きを見せ、勝田台教会でもクリスマス賛美集会を対面で実施することできます。また、様々な場所でクリスマスコンサートが開かれる計画が成されています。このクリスマスの時、まだ救われていない方々が、一人でも多くイエス・キリストと出会えるように、私たちを用いていただけるように、宣教の心を学んでいきましょう。

2.イエスの宣教の前提:宣教は父なる神が派遣される働き    

a. 宣教の言葉の意味

 日本語聖書で「宣教」や「宣べ伝える」と訳されているギリシヤ語「ケルーソ」やヘブライ語「バサール」は、「宣べ伝える」「叫ぶ」「宣言する」「公表する」という意味を持つ言葉です。つまり「宣教」とは、プライベートで限定されたものというよりは、公的で広がりをもち、外にでていくという意味をもつ言葉であることがわかります。また、ギリシヤ語辞典では、宣教の聖書的用法として、宣教で語られる言葉は、「耳を傾け従わなければならない権威が含まれるもの」と記されています。

b. 神の派遣

そこでまずは、宣教と権威の関係について見ていきます。ルカ4章は、イエス・キリストの公生涯の始まりを記している箇所です。この箇所はサタンの誘惑に打ち勝ったイエスが、御霊の力を受けてガリラヤに帰りました。そして会堂で教えはじめ、すべての人に賞賛されます。更にイエスは自分の生まれ故郷ナザレに行き、安息日に会堂で、預言者イザヤの書を開きました。

この箇所は、イザヤ61:1-2前半に記されているメシア預言であり、イエスは、その成就としてイスラエルの民の前に現れたということをご自身で宣言しています。そして、その内容は、まさにメシアが行う宣教の働きがどのようなものかを教えてくれるものです。

大切なポイントは、イエスは「遣わされた」お方であるということです。これが、宣教が権威の下にある活動である所以です。すなわち、「御霊の力を受けて、油注ぎと権威をもって、主なる神、すなわち父なる神によって、宣教の場に派遣された」ということです。父なる神に派遣されたということは、私たちがするべきことは、自分たちからでることではなく、派遣された父なる神の目的を達成するためにあるはずです。

 イエスの地上生涯の使命は、“貧しい者に良い知らせを伝える”ことでした。また、遣わされたその場所において、捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とする、という奉仕でした。まさに聖書通りのことがイエスの生涯の中で実現していきます。罪の束縛に苦しんでいる人には解放を、霊的無知や霊の目が閉じている人には、目が開かれ、真理によって自由にされることを宣言するものとなりました。

 父なる神の派遣による宣教は、イエスの働きの基盤となります。イエスは自己実現ではなく、神から与えられた使命を果たすために働かれました。イエスは、この地上での宣教の働きを父なる神からの使命として受けとり、忠実に実行されたのです。それゆえ、ご自身が預言の成就となったのです。

3.イエスの宣教の働き:しもべとしての姿

a.究極的なへりくだり

 ルカ4:31~41では、ガリラヤに遣わされたイエスの働きが記されています。その内容は、人々を教え、悪霊を追い出し、様々な病人たちひとりひとりに手を置いて癒すものでした。これらから見ることができるイエス・キリストの姿は、まさに仕える姿勢です。 

 イエスは、この世の権力者や富んでいる者の所へは積極的に足を運びませんでした。多くの人から見放され、蔑まされ、軽蔑されていた人たちの元へ歩み寄り、寄り添い、慰めを与えた人生を歩みました。手を置いて癒すとは、どんなに慰めと優しさに満ちた行為でしょうか。イエス様は、具体的な身体の癒しと共に、心の癒し、本質的な部分を癒すことができる唯一のお方です。

このへりくだりの姿は、十字架の死への従順で完成されます。ピリピ2:6-8にはこうあります。

フィリピの信徒への手紙/ 02章

6:キリストは/神の形でありながら/神と等しくあることに固執しようとは思わず

7:かえって自分を無にして/僕の形をとり/人間と同じ者になられました。/人間の姿で現れ

8:へりくだって、死に至るまで/それも十字架の死に至るまで/従順でした。

 イエス・キリストは、世界最大の究極的なへりくだりの宣教者です。なぜなら、神の国から、この世に遣わされたからです。無限の場所から有限の場所へと、全く次元の異なる場所に遣わされました。しかも、神の姿を隠され、人間の姿をとり、しかも十字架の死まで忠実に従うというしもべの姿を取られました。これは奇跡です、神様の愛の奇跡です。私たちは、安心する場所から外に遣わされていく時、少なからず恐れを持ちます。しかし、考えられない宣教の働きをしたイエスが、私たちと共にいて下さることに勇気と励ましを頂きましょう。キリストは私たちの恐れ、不安、難しさをご存じである、必ず寄り添って下さるお方です。イエスに倣う者として世に遣わされたならば、必ず神の助けを頂くことができます。

b.宣教の要素

ルカ4:31~41もそうですが、マタイ9:35はイエスの生涯の働きをまとめています。

マタイの福音書/ 09章

35:「イエスは町や村を残らず回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いを癒やされた。」。

イエスが行ったことは、自らが出て行き、教え、福音を伝え、癒しをされたということです。イエス様の宣教の働きは、福音を伝えるだけではありません。それに伴い、教育をし、福祉(広い意味で社会福祉、弱者を助ける)をなさったのです。キリスト教系の教育機関や、キリスト教系の病院、福祉施設はこの御言葉に従ってのことでしょう。

私たちがこの世に遣わされていく時、この視点は大切ではないでしょうか。イエス様は、ただ単純に福音だけを伝えたのではありません。イエスは、しもべとして、“人々の中にあって”福音を伝えたのです。イエスの宣教は、福音の伝達と、神を愛し、隣人を愛するということを切り離すことはできないのです。宣教の働きの視野は非常に広いものです。

4.イエスの宣教の精神:使命感、召命感

a.イエスの使命感と情熱

「他の町々にも、神の国の福音を告げ知らせなければならない。」 新改訳第3版では、「他の町々にも、“どうしても”神の国の福音を宣べつたえなければなりません。」と訳されています。

この言葉は、ガリラヤの民がイエスの素晴らし働きを見て、離れないでくださいと引き止めていた時に発せられたものです。ここに留まれば自分は民からあがめられ、尊敬され、この地方のリーダーとして立ち振る舞うことができたでしょう。しかし、イエスは民の懇願を振り切ってこの言葉を発しました。イエス様の宣教の動機はなんだったのでしょうか。それは、福音を宣べ伝えることが、神から派遣された使命だったからです。また、何か緊急性を感じる言葉でもあります。イエスは自分の時を認識していました。約3年という短い期間にしなければならないことが数多くありました。イエスは派遣された使命をしっかりと認識していたのです。この、イエスの明確な使命感と情熱に圧倒されます。 

b.宣教の中心性

またこの箇所は、宣教という広い視野の中にあって、純粋に福音を伝えるという伝道の中心性を教えてくれています。ここで“告げ知らせる”と訳されているギリシヤ語は「ユーアンゲリゾウ」で、嬉しい良い知らせを伝える、人々の救いに関することを伝える、といった福音伝道に焦点をあてた意味の言葉になります。

私たちの究極的な救い、すなわち神の怒りから解放され正しい関係を取り戻すということは、福音を信じることでしか得ることが出来ません。イエスの宣教の中心は福音を伝えることであったことを忘れてはなりません。

イエスがその生涯で伝えた福音とは、「神の国の福音」と書かれています。「神の国」に関する良い知らせとはどういう意味でしょう。それは、律法主義や儀式的な信仰に対する悔い改め、イエスが旧約で預言されたメシアであることを信じ、その教えを心の中心に据えて生きることで、現実生活の中でも神の国にあるイエスの全き愛、平安、喜びを得ることができる、という良き知らせでした。

それと同時に、将来的にイエス・キリストが王として統治する国が到来することを示す知らせでもありました。それは、罪によって堕落する前の創造当初の世界の回復、イエス・キリストを王とする神の栄光と愛と喜びと賛美で満ちる王国が完成する希望を宣言なさったのです。

4.私たちへの適用

a.私たちも召されている

イエスは地上での働きを完全に成し遂げて昇天される時、その宣教の働きを弟子達に託されました。そして、ペンテコステの日に聖霊降臨により教会が建て上げられ、聖霊の力によって、命をかけてイエスに仕えた歴史上の信仰者たち、その群れである教会の宣教の働きによって、福音は世界に広がり、私たちに届いたのです。それを受け取った私たちは、彼らに続く者として宣教を託されたのです。

ローマの信徒への手紙/ 10章 14節

14:それでは、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がいなくて、どうして聞くことができるでしょう。

15:遣わされないで、どうして宣べ伝えることができるでしょう。「なんと美しいことか、良い知らせを伝える者の足は」と書いてあるとおりです。

b.あなたの宣教の働きがある

宣教は、自分の国から外国に出て行く宣教師だけのものではありません。神様は私たちを、それぞれの宣教の場に派遣しています。家庭に、友人関係の中に、仕事の中に、社会の中に、イエスに倣う者として、私たち、そして教会は、宣教という使命を本質的に宿しているものです。

直接的な伝道が難しい場合も多いでしょう。それぞれの状況に応じて必ず宣教の召しが与えられています。それは関係作りかもしれません、落ち込んでいる人に寄り添うことかもしれない、宣教のための具体的な献金をする、また祈ることかもしれません。聖書の言葉を手紙で送る、直接に伝道することかもしれません。神の宣教は広くて、大きいものです。必ずあなたの宣教の召しがあります。そして、それは一人の作業ではありません。いち教会だけの働きでもない、全世界のイエス・キリストを信じる教会と、派遣された父なる神との継続的な共同の働きです。

c. 喜びと希望をもって

今の時代に生きるわたしたちが伝道する内容は、イエス・キリストの福音です。「イエスは、人の罪を身代わりに負って十字架にかかり死んでくださり、三日目に復活されました。そのことを信じる人は、罪赦され、滅びることなく救われて、永遠のいのちを与えられるのです。」この福音を、他の人に伝えることが伝道です。 

この福音は決して恥じるものではなく、私たちの誇りであり、喜びです。抑えることはできないのです。

福音宣教のゴールは、どこにあるのでしょうか。宣教の実としての異邦人の救いが満ちること、そしてイスラエルの民族的救いが訪れることです。更にその先にある、イエス・キリストの再臨、祝福に満ちた神の国の到来です。私たちはそのゴールに向かって働くことができるのです。こんなに素晴らしい使命はないのではないでしょうか。私たちは、遣わされた場所で、しっかりと地に足をつけ、忠実に宣教の使命を果たします。他方、大きな希望に向かっていることも視野に入れ、期待をもって宣教の使命を全ういたしましょう。

今日、わたしたちは、イエスに倣うものとして、イエス・キリストと共に宣教の場に遣わされていきます。それは、救いを届けるため、そして、イエスが再び来られる再臨の時の希望のためです。

しかし、イエスは言われた。「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。私はそのために遣わされたのだ。」

そして、ユダヤの諸会堂に行って宣教された。

竹田広志's Ownd

千葉県八千代市勝田台7-27-11 電話 0474-84-5045 牧師 竹田広志

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