12月17日(日)礼拝説教全文 説教者:曽根岡フサ子勧士

「罪人を招いてくださる主」 マタイによる福音書9章9節-13節  説教 曽根岡フサ子勧士

みなさん、お久しぶりです。昨年12月27日に日本を去ってから約1年ぶりに戻ってまいりました。コロナワクチンの普及によって、コロナがインフルエンザと同じような取り扱いを受けるようになり、このように皆様と共に対面で礼拝を捧げられるようになったことを、大変うれしく思います。私は、昨年アメリカに帰って3日目、12月30日に受けた乳がんの検診で、乳がんであることがわかり、それ以来9月7日に放射線治療が終わるまで、実に、9カ月余りの間手術や治療を受け、その後、回復に9カ月を要しましたが、恵みに富みたもう神様は、ちゃんと今年も主の御用に間に合うように癒してくださいました。今日こうして皆様にお会いできることを心より感謝しています。また、私の病のために、皆様の尊いお祈りをありがとうございました。私ばかりでなくこの教会の何人かの方々がご病気で、手術を受けたり入院されたりしたことを聞いております。その方々の癒しと心の平安を主が与えてくださっていることも伺い、主の御名を崇めておりました。まだ治療の最中(さなか)にある方々のためにも主の癒しの御手が置かれますように、引き続きお祈りさせていただきます。

ところで、来週の日曜日12月24日は、クリスマスイブの日ですが、この日は、イエス∙キリスト様がお生まれになる前の晩を意味します。このイエス様のお誕生を世界の各地でお祝いをする様子が、テレビなどで報道されますが、イエス様のお誕生日は、2000年以上たった今でも、どうしてこんなにみなさんにお祝いされるのでしょうか。どうして救い主と言われるのでしょうか。きょうは、イエス様やその弟子マタイが生きておられた頃のユダヤの社会状況や、イエス様が語られたお言葉などから、イエス様がどんなに愛に富んだ方であるかその一端を、またこの世にお出でになった目的についてお話ししたいと思います。

きょうお話しする出来事は、マルコによる福音書とルカによる福音書にも記載されていて、そこでは、マタイは、アルファイの子レビとなっています。当時は名前を二つ持つことがよくあったそうです。

ところで、イエス様がお生まれになった当時のユダヤ社会は、ローマ帝国によって統治されていました。そのために、ユダヤ人はローマ帝国に税金を納める義務があったんですね。その税金を集める徴税人は、民衆から取り立てる税金と、ローマ帝国に収める税金の差額を自分の収入としていたそうです。同胞のユダヤの人々から、3倍あるいは4倍もの税をごまかして徴収したりして不正を働いていたため、ユダヤ人に大変憎まれ嫌われる存在でした。そして、また、ユダヤ教の指導者たちは、ユダヤ人ではない異邦人と呼ばれるローマ帝国の人々の手先となって働く徴税人との交際を禁じていたそうです。今日の物語に登場するマタイはそんな徴税人の一人で、経済的には大変恵まれていても、ユダヤ社会からは蔑まれ疎外された立場にあった人でした。        

イエス様は、マタイが住んでいるガリラヤ地方のカペナウムという町に住まわれて(マタイ4:12,13)、宣教活動をしておられました。カペナウムで、イエス様は、ローマの百人隊長の僕を癒したり、ガリリヤ湖の嵐を静めたり、悪霊に取りつかれた人を癒したり、また、たくさんの教えを語っておられました。

イエス様が、収税所に座っていたマタイを見かける直前にも、中風の人を癒したという出来事がありました。この中風の人が床に寝かせられたままイエス様のところに連れて来られたとき、イエス様は、ご自分に地上で人の罪を許す権威が与えられていることを示すために、大勢の人の前で、中風の人に「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」(マタイ9:6)と言われたところ、その人は、起き上がり、家に帰って行ったそうです。この出来事を目撃した群衆は、恐れと共に、人間にこれほどの権威をゆだねられた神を賛美したとあります。マルコの福音書では、「人々は皆驚き、『このようなことは今まで見たことがない』と言って神を賛美した」そうです。

9節に「イエスはそこを立ち」とありますが、イエス様は、この奇跡を起こされたその場所を立って、歩いて行かれる途上で、収税所に座っているマタイを見かけられたのです。大勢の人々がイエス様のあとをぞろぞろついて歩いていたのですが、その大勢の人たちの前で。イエス様は、マタイに、「わたしに従いなさい」と声をかけられたのです。ルカの福音書によりますと、「マタイに目を留めて」とあります。人々に憎まれ、蔑まれているマタイにとって、今まで、イエス様のように関心をもって目を留めてくれた人はいたでしょうか。イエス様の教えや、なさった様々な奇跡が町中で大評判のイエス様が、自分のような者の存在に目を留め、しかも声を掛けてくださったということは、マタイにとって、信じられない事だったに違いありません。どんなに嬉しく、又誇らしかったことかと思います。

そんなイエス様の呼びかけに対し、マタイは、「立ち上がってイエスに従った」(マタイ9:9)とあります。他の福音書によると、何もかも捨ててイエスに従ったとあります。いったん徴税人としての職を離れたら、元の職業に戻ることは、当時出来なかったそうで、また評判の悪い徴税人を雇う人もなかなかいなかったそうです。マタイが立ち上がった瞬間に、多くの収入を得られる徴税人としての職を捨てたばかりでなく持っている物すべてを捨ててイエス様の後についてゆく決心をされたことが見て取れます。イエス様は、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある.だが人の子には枕するところもない。」(マタイ9:20)と言われた程に、寝るところもままならないほどの貧しい生活をされていました。マタイは、すべてを捨てて、そんな貧しい生活をされていたイエス様について行くことによって、物質的な豊かさから、貧しい生活へと180度の転換を図り、イエス様の愛に招かれてイエス様の愛を実践する者へと変えられてゆきました。

このマタイの行動は、短い文章の中では、とても唐突に見えて、そんなに簡単に、今までの豊かな生活を捨てて、イエス様についていく気になるだろうかと不思議に思う方もいらっしゃるかもしれません。しかし中風の人を癒された出来事を見て、群衆が、イエスにこれほどの権威をゆだねられた神を賛美したように、同じ町に住むマタイもまた、イエス様の事を見聞きして、イエスの内にその権威を見い出し、イエス様に対する賛美がマタイの内にも芽生えていたのではないかと思われます。イエス様はよく『あなたの信仰があなたを救ったのです。』と言われましたが、イエス様は、そのマタイの信仰に目を留められたのではないでしょうか。こうして、マタイは、イエス様に声を掛けられ、それに素直にお従いしたことで、ペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネ、ピリポとナタナエルに次ぐ7番目のイエスの弟子として召し出されました。それは、正にイエス様の愛が、マタイを救ったと言っても過言ではないと思います。

コリントの信者への手紙第一の1章26節から29節には、神は、世の無学な者、世の無力な者を選び、また、神は世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下されている者を選ばれた、とあります。新改訳聖書では、「またこの世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれたのです。」(コリント第一1:28)と書かれています。

イエス様は、このように社会的に無用と思える者や弱い立場の者を選んで、神の知恵を授け、神の目に正しい道へと導き、又、聖らかな者へと造り変えてくださいます。それだけでなく、わたしたちが(いつか来る)さばきの座に出た時、わたしたちの犯す罪のために、その罪を帳消にして無罪とするためにご自身の尊いお体を犠牲にして十字架にかかってくださいました。しかも、イエス様を信じる者を、神様とイエス様と聖霊様との永遠の交わりの中に招き入れてくださり、肉体は滅びても、霊は、滅びることなく、永遠に生きる者としてくださいました。この目的のためにイエス様は、神の独り子でありながら、人としての形をとって、わたしたちの救い主として、この世に生まれてくださったのです。

このイエス様の愛に出会い、マタイだけでなく今までとは違った価値観を見い出し、人生が変えられていった人々が、昔も今も数えきれないほど多くいます。今礼拝に集っておられる方々の中にも、そういう方がいらっしゃるのではないでしょうか。実は、わたしもそのうちの一人です。

以前にもお話ししたかと思いますが、この勝田台団地に、結婚して間もない頃越して来て、近所の奥様方との人間関係がうまくいかず、自分は正しくていい人なのに、周りの人が悪いと本気で思っていた未熟な者でした。そんな自己中心的な私が、教会で、バイブルスタデイや祈祷会、礼拝に出席するようになり、イエス様の教えを学んでいくうちに、近所の人が悪いのではなく、自分が間違っていたのだと、自分の愚かさに気づかされたのです。私は、26才の時にこの勝田台教会に来て、イエス様に出会い、イエス様を信じる者とされたことをどんなに感謝してもし尽くせない程感謝しています。

ところで、マタイは、イエス様に従っただけでなく、自分の家にイエス様と弟子たちを招き、食事をしていたとあります。ルカによる福音書には、イエス様のために盛大な宴会を催したことが記されています。そこには、イエス様とイエス様の弟子6人だけでなく、大勢の徴税人や罪人がイエス様と同席していました。ここでいう罪人というのは、法を犯した犯罪人という意味ではなく、下層階級の人々であり、ユダヤ人の律法で定める清めの習慣を守らない人々のことを指しているそうです。パリサイ派の人々は、徴税人だけでなくこれらの罪人達とも付き合わず、食事の席をともにするなどということは、考えられない出来事でした。それなのに、先生とも呼ばれる立場のイエス様が、徴税人や罪人たちと共に食事をする様子を見て、パリサイ派の人々は、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人などと一緒に、飲んだり食べたりするのか」(マタイ9:11)と批判めいた言葉を口にしました。パリサイ派の人々というのは、当時のユダヤ社会の支配者階級であり知識階級の人々で、律法が定める清めの習慣を大変厳格に守っていました。そんなパリサイ人から見たら、イエス様の行動は、信じられないものだったことでしょう。それに対するイエス様の答えは、「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」(マタイ9:12)でした。イエス様は、パリサイ人のように自分を神のみ前に清く正しい者であるとして、他の人を見下げている人には、医者という助けは要らない。しかし、それとは逆に、取税人や罪人のように社会からのけ者にされ、見下され、社会的に弱い立場にある人々は、救いや助けを必要としている病人であり、悔い改めさせ、神のみ前に正しい道を歩めるように導く医者が必要であると言われたのです。さらに、「『私の求めるのは憐れみであって、いけにえではない。』とはどういう意味か、行って学びなさい。」(マタイ9:13)と言われました。「行って学びなさい」の言葉は、パリサイ人が使う常套句、よく口にする言葉遣いだったそうです。この言葉を用いてパリサイ人に応えられたのです。またこのみ言葉は、ホセア書6章6節の「私が喜ぶのは愛であっていけにえではなく、神を知ることであって焼き尽くす捧げ物ではない」を引用しておられます。ユダヤの人々は、牛や羊などの動物をいけにえとして神殿の祭壇に捧げて焼いていましたが、神様は、そういう捧げものよりも、見下され蔑まれている人々に、愛をもって接することの方を喜ぶ、とおっしゃったのです。イエス様が取税人や罪人と食事する事さえも批判的に見るパリサイ人と違って、イエス様は、これまで取税人や罪人が犯した罪に対し、一言も非難めいたり裁いたりする言葉を発せず、ただ主の愛の内にマタイや罪人を導き招いてくださっています。

イエス様に出会ってからのマタイは、イエス様が、旧約聖書で預言されている救世主であることや、イエス様の一生を通して語られた言葉や行いなどを書き記し、マタイによって書かれた福音書は、66巻ある聖書の一画をなして、昔から今日に至るまで世界中の人々に読まれています。この福音書を通してどれほど多くの人々が慰められ、励まされ、喜びに満ちた生活を送るようになったことかと思います。

聖書の中には、マタイだけでなくいかにイエス様が、弱い立場の人々を愛をもって救いに導かれたか、たくさんの人についても書かれています。まだ聖書を読んだことのない方がいらしたら、このクリスマスを機にぜひ聖書を読み始めてみませんか。イエス様の愛がどんなに広く深いかを知ってみませんか。きょうこの場に、自分はダメな者であるとか、社会では無用な存在であるとか、自分に価値が見いだせない方がいらしたら、イエス様は、そんな方のへりくだった心を尊び、共に歩んでくださいます。「しかし、神の求めるいけにえは、打ち砕かれた霊、打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは悔(あなど)られません。」(詩編51:19)とあります。イエス様がお生まれになったこの時期に、イエス様の「私に従いなさい」の御言葉に、マタイのように思い切って従っていってみませんか。そして、あなたもイエス様とともにイエス様の愛の内に歩まれるとき、その愛の豊かさに気づかされることでしょう。また、自分は正しい人間だと思い上がることなく、自分のまわりの弱い立場にある方々、助けを必要としている方々に温かい目を向け、ますます主の愛を実践させていただこうではありませんか。

竹田広志's Ownd

千葉県八千代市勝田台7-27-11 電話 0474-84-5045 牧師 竹田広志

0コメント

  • 1000 / 1000