12月31日(日)礼拝説教全文

「キリスト・イエスにある命の霊(御霊)の法則(原理)」 ローマ8:1~8

今年最後の礼拝となりました。明日は2024年を迎えます。

一年を振り返りながら、神である主は、私達に命、そして日々の糧、暮らしを与え、太陽を上らせ、雨を降らせて下さいました。又、先日は素晴らしい「喜びの知らせ」、イエス・キリストの誕生を皆さんと一緒に祝いました。神の恵みは私達の周りに溢れています。又、この一年、私たちは神である主の前に、様々な祈りをささげてきました。主の良くして下さった事を何一つ忘れるな。応えられた(叶えられたではなく)祈りを数え、感謝をもって主をほめたたえ、栄光を主にお返ししたいと思います。

今年最後のみことばをどこからお話ししようかと思い巡らせていましたが、今年の9月17日、敬老者祝福式のみことばの短冊に書きました「キリスト・イエスにある者は、罪に定められることはありません」という聖書のことばが再び響いてきました。8月末~9月にかけて私はコロナに感染し、床に臥せっていましたが、このみことばが迫って来て、短冊に書き記した次第です。「罪に定められることはない」とは、常に死に直面している薄氷の上を踏むような私たちにとって、何と平安であり、大きなイエスの恵みであるかと思わされます。

ローマの信徒への手紙は、パウロが書いた手紙です。新約聖書にはパウロの書いた手紙が多くありますが、彼は自らが巡回し、伝道し、建て上げたキリスト教会の信者へ励まし・勧告の手紙を多く書いています。又、教会を託した自分の弟子にも手紙を書いています。しかし、ローマの信徒への手紙は、他のパウロの手紙と違って、彼が未だ会ったことのないローマのキリスト者達へ(:10~15)、自分のイエス・キリストを信じるその信仰について論理立てて説明したものです。手紙というより、ある意味では、キリストについての教理論文のようなものと捉えることもできます。パウロは知識豊かな博学な者でもあります。

ローマ人への手紙を大きく3つに区分すると、神・罪・救いの教理(1~8)、イスラエルについて(:9~11)キリスト者の実践(:12~16)となります。8章は「誰がキリストの愛から私たちを引き離すことができようか!」と、イエスによる救いについて、最も力強く筆が進められているのを感じます。

本日は「キリスト・イエスにある者は罪に定められることはありません」を軸に、キリスト・イエスにある命の霊の法則についてお話しします。

(:1)

「従って」は、前にある文章と共に、ここまでパウロが述べてきた、神、人間の罪、そして、私達の罪を贖う為に十字架で死なれ、三日目によみがえられたイエスを信じる、信仰による義、救い、永遠の命を丸ごと含んで、「今や、キリスト・イエスにある者は罪に定められることはありません」と語っています。彼の最も述べ伝えたい文言(もんごん)のひとつです。

(:2)

「キリスト・イエスにある命の霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放した」とあります。

罪と死の法則とは何でしょうか。医者は、病人の病気の原因を探ります。これが原因でこの人にこのような病状が起きているのだと診断します。そして、限界もありますが、適切な処置をします。時には病気の原因になっている病巣を切除します。

聖書は、人の死の原因は罪であると私たちに教えています。罪の結果が死です。罪と死の法則とは、まさに、原因と結果です。罪という病巣を取り除く以外に、死の解決はありません。

罪の支払う報酬は死です。人間は一度死ぬことと、死んだ後裁きを受けることが定まっています。

私は罪深い者です。罪に対して死と神の裁きを受けなければなりません。

明白に、創世記のアダムとエバの出来事は、罪と死との法則を物語っています。

苦しまないで死を迎える事、大往生して寿命を全うすることが、死の解決ではありません。

罪の解決なしに、死の解決はありません。

死を覚えよ メメント・モリ どんなに物やお金を蓄えていても、どんなに体を鍛えて力強い肉体を持っていても、人の命は一瞬にして取り去られるものだからです。

罪と死の課題は、例外なく、全ての人の、最も大きな課題です。

(:3)

どうして、イエス・キリストが来られたのでしょうか。どうして、神の御位をも捨てて、人の世にお生まれくださったのでしょうか。ここに、神の愛があります。

イエス・キリストが来られたのは、罪と死による法則(定め)から、私たちを解放する為です。

その方法は、「ご自身が人となられて(罪深い肉と同じ姿で)、人々の罪を負って、人々が受ける罰を身代わりに受ける」という十字架による罪の贖いです。十字架に私達の罪の赦しがあります。

「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは何をしているのかわからずにいるのです」と、罪と死との法則の中にある私の為に、あなたの為に、イエスは十字架の上で祈られたのです。

(:4~8)少し難しい内容にはなりますが、肉ということばを「世」と、霊ということばを「キリスト」と読み替えると、その意味合いが良く伝わってきます。

読み替えて読んでみましょう。

私達の目や関心は「世」に向けられています。自らの思うままに、望むままに、肉の欲、目の欲、持ち物の誇り(第一ヨハネ2:15~17)に心が支配されています。

神の愛にも、憐れみにも、恵みにも、無関心です。

「今や、キリスト・イエスにある者は罪に定められることはありません」

罪と死との法則から解放されてください。

イエスによる、救いと永遠の命の法則に、信仰によって入って下さい。

私たちは肉体を持っている限り、世に惹かれます。

電車の中で 洋服のことについて1時間も話す女学生たちを見たことがあります。私達も似たような日常を過ごしているのかも知れません。

人は何を見、考え、思うかによって(観)その生涯が決定していきます。

イエス・キリストのその生涯と、その教えに心を留める人は何と幸いでしょう。

このお方は、死んだ偉人の中に数えられる人ではなく、よみがえり、今も生きておられる、神の御子です。

肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和です。

竹田広志's Ownd

千葉県八千代市勝田台7-27-11 電話 0474-84-5045 牧師 竹田広志

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