1月7日(日)礼拝説教全文
「イエスの命に与かる」 ヨハネ6:41~51
以前礼拝でヨハネ6章から、5つのパンと2匹の魚をもって5千人以上の人々に食べ物を与えたイエスの奇跡(ヨハネによる福音書では奇跡とは言わず「しるし」、神の御子としてのしるし、と表現します)を読みました。
実際当時の人々は皆が貧しく、食べ物がなく飢えていました。イエスが人々に食べ物を与えられた奇跡は、人々を熱狂させ、人々はイエスをかつてのダビデのような王に、モーセのような指導者に担ぎ上げようとしました。旧約聖書に書かれている、モーセが荒野で天からのパン、マナを人々に与えて、イスラエルの民を養われた奇跡を彷彿とさせました。
パンのしるしの後、群衆を避けて行動されたイエスでしたが、人々はイエスを捜し見つけて、「モーセは荒野で天からのパン、マナを降らせたが、あなたはどのようなしるしを与えるのか」と詰め寄りました。
イエスは「私が命のパンである」「私は天から降って来たパンである」とお答えになりました。
天から降って来たパンであるイエスを信じる者は、決して飢えることがなく、決して渇くことがありません。イエスのもとに来る者、イエスを信じる者は、永遠の命を得ます。終わりの日には復活します、というイエスのお言葉、約束です。
ユダヤ人たちはつぶやきました。
「天から降って来たパンである」と言われた言葉に、群集はつぶやきます。「私は天から降って来た」とはどういう意味か。イエスがナザレの出身で、父ヨセフも母も、その家族を知る者もいます。天から下って来たとは何事か・・・。我らと同じ人間ではないか。彼が自分を神のように言う「天から降って来た」とはどういうことか。
再び、イエスは大事なことを彼らに言われます。
「私のもとに来る者を、私は終わりの日に復活させる」
よくよく言っておく(:47)「私を信じる者は永遠の命を得ている」
「聖書(旧約聖書)にある預言者の言葉から、神から学ぶ者は、私のもとに来る。」
「父なる神を見た者はいない。神のもとから来た者だけが父なる神を見たのである。」
イエスは父なる神と共に天におられたお方で、そこから降って来たと言われるのです。
「永遠の命」、「終わりの日の復活」は、繰り返しイエスが言われるKEY WORDです。
これこそが、イエスが私達に与える祝福であり、イエスを信じる者が受け取るものです。
多くの旧約の預言者は「神から遣わされて来ました。」しかし、人々がつぶやくのは「天から降って来た」という内容です。イエスは預言者のひとりではありません。神の御子です。
33 38 41 50 51 58 私は天から降って来たパン 神から(天から)遣わされて(降って)来た者
39 40 44 54 終わりの日によみがえらせます
27 40 47 54 永遠の命 永遠に生きます
35 37 44 45 47 私のもとに来る者、私を信じる者、このパンを食べる者は永遠の命を持ちます。
よくよく言っておく(:47) もう一度イエスの言葉に耳を傾けましょう。
イエスを「信じる者は永遠の命を得ている。」得るであろうではありません。既に得ています。持っています。
永遠のいのちについて何度も礼拝の中でお話してきましたが、
聖書の言う永遠の命とは、言葉そのものの響きはいつまでも生きる命、死ぬことがない命という感じがしますが、「永遠の神である主に結ばれている、つながっている、接がれている、(交わっている命)」のことです。復活されたイエスの命に結ばれていることです。ぶどうの木とその枝の姿です。
永遠は神のみに属します。イエスご自身が永遠の命です。そのイエス(の命)とひとつとなることです。
永遠の命とは、神から与えられる祝福であり、逆に死は神の裁きです
永遠の命とは、死に対する勝利、復活の命です
永遠の命とは、神による救いです。罪の赦し、神の義です。
永遠の命とは、飢えることない、渇くことのない神の満たしです。
永遠の命とは、神の民、神の子供、御国の世継ぎとして、神の国に入ることです。
永遠の命とは、神が与える回復。癒しと慰めです。
永遠の命とは、復活されたイエスご自身です。
(ヨハネによる福音書には永遠の命を受ける、マタイ、マルコ、ルカによる福音書には神の国に入る、というテーマがあります。どちらも同義です)
罪の為に神のいのちの源から追い出された人間が、今や、命を与えるキリストの御霊の働きによって、生ける神と和解が与えられ、交わりが回復されます。人は本来、神と深く交わる霊的な存在として、神の息が吹き込まれ、神のかたちに創造されました。
キリスト・イエスは私達の罪の為に十字架で、肉を裂き、血を流し、死んでくださいました。罪なき正しい人、神の御子の命という代価を払ってくださいました。そして三日目に復活されました。それは、私達の罪を贖い、ご自身の命と言う代価で罪の奴隷である私たちを買い取り、神の子供とするためにです。私達は、キリスト・イエスによって回復され、癒され、新しく生まれ、造り変えられ、神との交わりを持つものとされたのです。
今年最初の「聖餐式」をこれから行います。
私達はこれを記念として、霊的な糧、祝福を目に見える形として行います。カトリック教会では、毎週ミサが行われ、信者はパンだけ預かり、司祭だけがぶどう酒を頂きます。そしてこのパンとぶどう酒は聖体として、食すると、実際のイエスのからだ、イエスの血に変化(化体)すると信じています。キリスト教会の歴史は、イエスの肉と血を食して来た歴史、ということもできます。
* 初代キリスト教会は、この聖餐式の為に、ユダヤ教の異端として、人の肉や血を食べる、おぞましい宗教と誤解され、非難されることもありました。
カトリック教会とプロテスタント教会では、聖餐式の執り行い方も違っていますが、イエスの命に与かること、イエスとひとつにされること、という意味は同じです。永遠の命とは、イエスの命に与かることです。
「よくよく言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。私は命のパンである。」
0コメント