1月14日(日)礼拝説教全文
「イエスの言葉は霊、命」 ヨハネ6:60~71
能登半島地震被災者の為に祈りましょう。
イエスの言葉につまずき、離れ去る者、そしてイエスを裏切る者がいます。
本日の箇所では、イエスに従ってきた者(弟子たちの多くとあります)がつぶやき、離れ去り、イエスと共に歩まなくなったことが書かれています。そのつまずきの理由は何でしょうか。
それは、イエスの言葉です。「私は天から降って来た命のパンである」「私の肉を食べ、私の血を飲む者は永遠の命を持ち、終わりの日に復活させる。」という内容です。
イエスのもとに来る者は、イエスを信じ、イエスの言葉を信じます。
私達は教会の礼拝でイエスのもとに集まり、イエスを信じ、聖餐式を行います。パンとブドウ液を共に食し、飲んで、イエスの肉と血、命のパンであるイエスをいただいて、イエスの命が私の内にあることを受け止めます。イエスの言われた通り、これを記念として行います。
* 初代キリスト教会は、この聖餐式の為に、ユダヤ教の異端と見られて、人の肉や血を食べる、おぞましい宗教と誤解され、非難されることもありました。
当時、人々はイエスをどのように見たのでしょうか。彼らの願いはパンを食べて満腹することです。病が癒され、困難な状況から抜け出すことです。ローマの圧政の中から解放されることです。イエスが王となって、自分たちが良い思いをすること、高い地位につくことです。
そのようなもののみを求める者は、イエスのもとから去っていきます。
自分の思うようにならない、自分の願っているものとならない、自分の考え方や価値観と違うと、イエスのもとから去るのです。
自分を中心に考えるのではなく、イエスの言葉を信じることが信仰です。イエスに従うことが信仰です。
それは時に、理解できないこともあります。自分の願っているものと違っていることもありますし、時には、自分の大切にしているものを手放すこともあります。
イエスに従う道は、自分を捨て、日々自分の十字架を負って行く道です。
どうしてイエスの弟子のユダはイエスを裏切ったのでしょうか。イエスが十二弟子として選んだ人です。ユダも他の弟子と同じように、イエスを信じ、イエスを愛し、イエスに従って来た人であったでしょう。しかし、もしかすると身勝手な理想と期待をイエスに寄せていた人であったかも知れません。
イエスはユダについて「しかし、あなたがたの中に信じない者がいる」と言われ、「イエスは最初から、信じない者が誰であるのか、また、ご自分を裏切る者が誰なのかを知っておられた。」とヨハネは解説します。
又、「あなたがた十二人は、私が選んだのではないか。ところがその一人は悪魔だ」と言われ、「イスカリオテ(地名カリオテ出身)のシモンの子ユダのことを言われたのである。」と、その時にはわからなかったが、あの言葉はユダを指してイエスが言われていたのだと、ヨハネはイエスの言葉を解説します。十二弟子の一人でありながら、イエスを裏切ったのはまさにこのユダです。
ユダは銀貨30枚でイエスをユダヤ人に引き渡しました。ユダはイエス一行の金入れを預かっていた(ヨハネ12:6、13:29)会計担当であったこともわかりますし、その中身をごまかしていた(ヨハネ12:6)ともあります。ヨハネは、ユダについては金欲しさにイエスを引き渡したと記しています。しかし、イエスを引き渡したことを後悔したユダが、銀貨を神殿に投げつけて、自らの命を絶ったところからは、単純にお金の為ではなかったことも分かります。
イエスが選んだ十二弟子のユダが、イエスを裏切った理由は永遠に謎ではありますが、はっきりしているのは、イエスがユダの裏切りを止めることをせず、十字架の苦難の道を進んで行かれたという事実です。このことは、しっかりと覚えておきたいと思います。
ここからは私なりの一考察となりますが、ユダがイエスとの最後の晩餐の前に、イエスを引き渡す準備を祭司長のところで行っています(マタイ26:14~16)。
彼がこの行動に出る前に、ベタニアでナルドの香油をマリアが注ぐ記事があります(ヨハネ12:1~8)。(マタイ、マルコでは、一人の女が香油の壺を割って、イエスの頭に注ぎかけたとあります。)
高価な香油をイエスの足に注ぐマリアの行動を、ユダが「なぜ、この香油を300デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」とマリアの行動を非難します。ヨハネはユダが盗人だからだと、その言葉の理由を記します。イエスはマリアの行動を「世界中どこでも、この人のしたことは記念して語り伝えられる」と良い行いであると受け入れています。
このすぐ後に、ユダの裏切りがあります。
ユダは、日ごろ貧しい人に施すことに心を向けておられたイエスから、ユダが言う通りです、と言ってもらえるものだと思ってはいなかったでしょうか。ユダのイエス理解は、貧しい人々に施すことを優先され、ご自身の為に高価な香油を使うことを決して求められるお方ではない、というものでなかったでしょうか。
イエスはユダの進言・意見を退けられ、マリアの行為を受け入れられます。弟子たちの視線が注がれる中、ユダの心に恥が入ります。面子が潰れます。
アベルの献げ物を主が受け入れ、カインの献げ物を退けられます。
カインの面子が潰れます。
魔が差すという言葉がありますが、悪魔が彼の中に入ります。
イエスに従って来た弟子の多くが、イエスのもとを離れる中、イエスは十二弟子に「あなたがたも去ろうとするのか」と問われます。
シモン・ペトロは答えます「主よ。私たちは誰のところへ行きましょう。永遠の命の言葉を持っておられるのは、あなたです。あなたこそ神の聖者であると、私たちは信じ、また知っています。」
この応答は、「私があなたがたに話した言葉は、霊であり、命である」と言われたイエスの言葉に対するものです。
パンは、目に見えますが、腹に残り続けません。
言葉は、目には見えませんが、内に残り続けます。イエスの言葉は、霊であり、命です。
永遠の命の言葉を人は持っていません。永遠の命の言葉をもっておられるのはイエスだけです。
「私が永遠の命を与え、私が終わりの日に復活させる。」
イエスが、あなたに永遠の命を与え、終わりの日にあなたを復活させる、と言われる言葉をあなたは信じますか。それとも、「これはひどい話だ。誰が、こんなことを聞いておられようか」とイエスのもとを去りますか。
「永遠の命の言葉を持っておられるのは、あなたです」とイエスに応答できる人は、幸いです。
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