1月21日(日)礼拝説教全文

「あなたがたの時はいつも備わっている」 ヨハネ7:1~13

エルサレムで行われる仮庵の祭について

ユダヤの3大祭のひとつです。①過越しの祭(種入れぬパンの祭り)、②七週の祭り(五旬節)、③仮庵の祭りがあります。出エジプトを記念し、荒野を放浪中、仮の家、幕屋、テントを張って生活したことを覚える祭りです。日程は9月頃、秋の収穫感謝祭でもあります。

イエスの家族について

本日の聖書箇所では、聖書の中ではあまり語られていませんが、イエスとその実の兄弟との対話があります。

イエスの家族構成については、大工であった父ヨセフ、母マリア、そして、兄弟ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダ、4人の兄弟と数名の妹たちがいました。(マタイ13:55~56、マルコ6:3)父ヨセフについては、イエスの公生涯で登場していませんので、既にその頃には亡くなっていたと思われます。 

イエスを神の御子、救い主であることを一番信じられなかった人々は、いつも身近にいた人たち、イエスの兄弟であったと思います。子供の頃から一緒に生活しているからです。ナザレの同郷の人々もそうであったと思います。

イエスの兄弟たちは最初、イエスの働きに反対していたようですが、イエスの十字架の死と復活後、イエスを信じました。次男のヤコブは初代エルサレム教会の議長(使徒15:13)の働きをしています。

本日の箇所では、イエスの兄弟はイエスに「ユダヤのエルサレムへ行って、公に自分を現しなさい」と勧めています。その理由は、「兄弟たちも、イエスを信じていなかったからである」と説明されています。自らが神の御子であり、救い主であると言うならば、こんな田舎で活動しているのではなく、都に行って自らを人々に示せばよいといいう感じです。

そのような内容は聖書にはありませんが、イエスは弟や妹に対して、尊敬できる良い兄であったと想像します。下の兄弟たちの面倒を見、家の仕事も良く手伝っていたのではないかと思います。しかし、イエスの兄弟から見ると、兄は変わってしまった、突然家を出て、長男としての責任を放棄して、変わった活動を始めた、おかしくなってしまったと思っていたのではないでしょうか。

30歳を境に、家に帰って来なくなり、大工の仕事もしなくなりました。

ただ、誕生の前からみ使いのお告げを受け、自分の身に起こったことを知っていた、イエスをずっと見ていた母マリアは違っていたでしょう。

イエスの言われる「時」

イエスの兄弟たちが「ユダヤに、エルサレムに、仮庵の祭りには、私たちと一緒に上らないのか」とイエスに言いますが、「私の時はまだ来ていない」(:6)「私の時がまだ満ちていない」(:8)とお答えになっています。イエスの敵対者たち(殺そうと狙っていた人たち)がユダヤのエルサレムには、律法学者、祭司をはじめとして多くいました。いつもイエスは、ご自身の「時」を見つめておられました。

「時」とは、神のみこころに従って果たさねばならないイエスの最大の使命「全ての人の罪の贖いの為の十字架の時」です。

その時とは、イエスの弟子ユダが裏切る時であり、イエスが十字架で死なれる時です。神の時、それは罪の贖いを明確に示す過越しの祭りの時です。事実、イエスの十字架の出来事は、過越しの祭りの只中で執行されました。

神の使命には、神の成される時があります。神は、教会に、私たちに託されるご自身の働きにも、時を備えて下さっています。イエスに従う者たちに、又、ひとりひとりに「みこころ」をもっておられます。今がその時であることを認識できるのは幸いです。「時」を見逃さず、生かして用いる事が大事です。

皆さんには、これは神のご計画の「時」であると理解した経験がありますか。

牧師の働きは、自分の計画・自分の予定ではなく、(肉の思いで〈ごり押し〉をして失敗することもあったでしょうが)、自らの計画・予想を遥かに超えた「神の時」を数多く経験させていただく仕事です。

今、山下神学生が教会の働きに加わって下さっていますが、主からの語りかけを受け、牧師、伝道者になる道を進んでいます。大西一功先生のように、仕事を終えてから聖書学院へ進まれ、牧師になられた方もおられます。私のように学生生活を終えて、若い時に牧師・伝道者への道を進む人もいます。

牧師・伝道者の道は、スタートから最後まで、それが「神の時」であることを強く知らされます。自分の計画の道を進むことではないからです。

* 関姉の証(ひとつ)

エフェソ5:16に「時をよく用いなさい。今は悪い時代だからです」今の時を生かして用いなさい。機会を十分に生かして用いなさい。というみことばがあります。

* 祈りの中で神様から示されて私たちがすること…

* 大島泉の家の「教団中高生キャンプ」の証

キャンプの3日前の金曜日 参加者の李ヨセフくんのお母さんの交通事故

参加できないだろうと思ったが…お母さんの日記から

彼はキャンプに参加して、牧師になる決断をした。

何ゆえにと今でも思うが、

自分の目の前にある時を嘆くのではなく、一粒の麦として、良い出来事も悪い出来事も、あらゆる機会を私たちは、神の時と受け止めて、生かして、用いていくことができる。

私たちの「時」

イエスは「私の時はまだ来ていない」と言われましたが、「しかし、あなたがたの時はいつも備わっている」(:6)と言われています。どのような思いで、イエスは兄弟たちにこの言葉を語られたのでしょうか。

「私の時」とは、イエスが十字架で死なれる時ですが、「あなたがたの時」とは何でしょうか。あなたがたの時とは、イエスの兄弟たちが、心からイエスを神の御子、救い主と信じる時、「イエスを信じて救いを得る時」です。それは、いつでも準備ができている、というものです。

ブラジルで用いられている宣教者について、ブラジルから来られたクリスチャンの兄弟が話してくれました。何がその宣教者の言葉の中で最も響くのかと。それは、その宣教者はいつも、今、今が… 今主が語っておられます。今信じなさい。今お応えしなさい。いつか信じるのではなく、今日、今が決断の時、救いの時。門は開かれ、救いの時はすでに来ている、とお話しされるのだそうです。

そう、あなたにとって、今が恵みの時、今が救いの日です。 第二コリント6:2

イエスの兄弟にとって、イエスが日常生活でいつも一緒にいて話している兄であることは大きな壁であり、つまずきであったでしょう。しかし、兄弟関係を乗り越えて、イエスを救い主として信じる時を、イエスは待っておられました。家族への伝道は、イエスにとってどの様であったのでしょうか。

(:10~13)イエスは祭りには上って行かないと言われましたが、公にではなく内密にエルサレムへ上っていかれます。祭りの最初の数日は、人々に知られないように行動されていました。

ユダヤ人たちは、祭りにあの評判のイエスが来ておられるだろうと探していました。イエスの働きはガリラヤで為されていました。イエスについていろいろな噂が祭りの中でささやかれていましたが、ユダヤ人たち(当時の宗教的指導者、律法学者、祭司)がイエスを敵視していたのを知っていたので、公然とイエスについて語る者はいませんでした。

家族の救いの為に祈る私たちですが、今の時を生かして用いていくことが大事です。救いの門はいつも開いていることを覚えましょう。イエスは今日、あなたがイエスを信じ、イエスの許に来ることを願い、招いておられます。

今、主のために、家族のために、友人、知人のために、私にできることは何か考えましょう。

「あなたがたの時はいつも備わっている」のです。

竹田広志's Ownd

千葉県八千代市勝田台7-27-11 電話 0474-84-5045 牧師 竹田広志

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