1月28日(日)礼拝説教全文
「イエスの教えは神の真意」 ヨハネ7:14~24
イエスは仮庵の祭りにエルサレムへ上って行かれました。
イエスは、最初は身を隠して行動されていましたが(ユダヤ人の指導者たちがイエスの命を狙っていたので)、祭りの中頃になりますと、堂々と神殿の境内に入って行かれ、人々に教えられました。(:14)
神殿とは、イエスが「私の父の家」と呼ばれている場所です。しかし、実際は、祭司・大祭司が管理する敵陣のど真ん中です。
そのような中で、物怖じせず、イエスは堂々と人々の前に立ち、人々に教えておられます。最初は祭りの中、身を隠すように行動されていましたが、神殿はやはりイエスの父の家なのです。私達は反対者の中で、アウエイの中で、どのような態度で臨むことができるでしょうか。キリスト者の迫害の歴史の中では、裁判に引き出され、尋問を受け、弁明をしなければならないような時がありました。そのような機会は私達にはないかも知れませんが、どのような人の前にも大胆に神の福音を語れる者でありたい。なぜならば、私達の主、イエスがそのようなお方だからです。
人々はイエスの教えに驚きました。(:15)
「この人は学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなに良く知っているのだろう」イエスは聖書(旧約聖書)をよく知っておられる方です。誰よりも。
その教えの出所はどこなのか。どこでそれを学んだのか。いったい誰から学んだのか。
* パウロは(使徒22:3)律法の有識者ガマリエルから教えられ、薫陶を受けたと言っています。多くの祭司も律法学者、ラビ(教師)と呼ばれる者も、高学歴の律法の学びを積んだ人たちです
神殿(祭司の治めるテリトリー)で、堂々と話しておられるイエスの教えを聞いていた人々の反応は、どこでこの人は律法を学んだのか、何の権威によって民衆に教えているのか、というものでした。
イエスの教えとはどのようなものであったのでしょう
1、神の御心を知り、御心を行いなさい
イエスの教えの出所は、父なる神です。「私の教えは、私のものではなく、私をお遣わしになった方の教えである。」父なる神の御心を行う者は、イエスの教えに従います。「この方の御心を行おうとする者は、私の教えが神から出たものか、私が勝手に話しているのか分かるはずである。」
その教えが、神から出たものなのか、勝手に話しているものなのか、その判別はとても重要です。
律法は、神の御心です。モーセはその律法を神から授かり、民に与えました。神の御心を行うとは律法を行う事ですが、イエスは学識を積んだ、祭司、律法学者、パリサイ派の人々に向かって、「ところが、あなたがたは律法を守らない。」と言われます。それは彼らが神から遣わされたお方イエスの教えを聞かず、イエスを殺そうとしているからです。彼らはどうしてイエスを殺そうと思ったのでしょうか。それは、イエスは律法を守らない、律法にある安息日を破ったという理由によってです。安息日に仕事をする者は殺されなければならない。それは神の御心でしょうか。(とても大事な安息日についての理解)
「安息日に仕事をする者はすべて、必ず死ななければならない」出エジプト記31:15
モーセの律法には、繰り返し同じ「必ず死ななければならない」と、厳しい安息日の規定があります。安息日を守れ、仕事をしてはならない、という戒め、この律法を私達はどのように受け止めればよいのでしょうか。十戒は私達キリスト者にとっても大事な戒めです。
安息日は人の為に神が定められた聖別と祝福であり、休息です。祝福への招きです。イエスの安息日についての教えはこうです。「安息日は人のためにあるのであって、人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある」(マルコ2:27)安息日の主催者は神であり、イエスご自身です。イエスの招きに応じて、イエスの許で、私達はイエスから安息をいただきます。だから仕事を休んで、全ての働きを止めて神の許へ行くのです。大事なのは仕事をしないことではなく、神の御許に集い、祝福を受けることです。イエスの教えは、石に書かれた文字そのものではなく、それを命じられた父なる神の御心です。私達の主日・日曜日の礼拝もそうです。
安息日に対する教えは続きます。
ここでイエスが言われる、皆が驚いている「一つの業」とは何でしょう。ベテスダの池で38年間床に就いていた男を癒したこと(ヨハネ5章)です。ユダヤ人たちは、男が神から全身の癒しを受けたその大いなる祝福に注目するのでなく、イエスが安息日にそれを行ったことを非難しています。「うわべで裁くのをやめ、正しい裁き(判断)をしなさい」とイエスは言われます。
イエスは安息日にこの男に癒し(神による解放と祝福)をお与えになる理由を、「私の父は今もなお働いておられる(休んではおられない)。だから、私も働くのだ」(5:17)と答えておられます。素晴らしい、力強いイエスのお言葉です。長年床に臥せっていた男が、今、神の御力によって解放されることは、神のおこころ、神の祝福です。神は日曜日も月曜日も、夜も昼も、眠ることなくまどろむことなく、私達を愛し、祝福を与え続けておられます。その祝福は尽きることがありません。神の川は水で満ちています。生まれて8日目の割礼は神の祝福のしるしです。安息日であっても割礼を施すのです。ましてや、この38年間苦しんでいた男の全身を癒すことは神の御心なのです。
聖書のみことばの文字面ではなく、イエスの言葉、聖書を読み、神の御心(真意)を求め、しっかり受け止め、それを実行しなさい。それが、イエスの教えです。御子イエスの教えを通して、そしてもうひとりの助け主であられる、今、私達と共におられる聖霊によって、私達は尚、聖書のみことばの真意を、正しい解釈を得ます。
2、神に栄光を帰しなさい
神のみこころ、神の教えに生きる者は、自分の栄光を求めません。父なる神、イエスの栄光を求めます。また、特定の人に栄光を帰すことをクリスチャンはしません。そのことを私達は殊更に徹底したいと思います。先日、午後の学び会で、学びが終わった時に皆さんが拍手をした時、それを大西先生が受け止められなかったのは、拍手は主に、という意味です。オルガン演奏の音楽礼拝もそうです。
誰がすばらしいのではなく、そのように人を新しく作り変えてくださった神がすばらしいのです。
* 芸術の世界においては、作品そのものもすばらしいものでありますが、誰の作品であるのか、贋作ではなく本物、さらに、そこにその作者の名前が入って価値が決まります。
私たちはキリストの名が刻まれています。
キリストによって救われ、キリストのものとされて、キリストに属する者、それがキリスト者です。
本物の預言者、教師、証人は、神に栄光を帰す者です。
割礼の有る、無しではありません。
洗礼を受けてキリスト者になることはイエスの教えであり、神の御心です、私たちの神に従う決心は第一歩であり、大事なことです。しかし、洗礼よりもさらに大事なのは、イエスの教えを日々聞き、神の御心に従い、栄光を神に帰す事です。
うわべでなく、イエスの教えに生きるその実質、中身、心、生活が大事です。
神に栄光を帰す者とは、その歩み、生き方とはどのようなものでしょうか。
神の愛、憐れみ、祝福をいっぱいに受けて(これが源)、神様がいかにすばらしいお方であるかを、全存在をもって証しすることです。
神の愛への応答こそ、神の栄光を現すことです。
① 神によって救われた事を証しする キリストの証人として あなたがたは地の塩、世の光です。
行動、言葉、表情、日々の生活において、全身全霊で主を証します。
イエスの十字架の贖いの死と復活を知り、イエスを信じる信仰によって、自分が罪と死から救われた事を証しします。
神に従うことがどんなに素晴らしいか、どんなに多くの恵みを受けているか、証しします
救いの恵みは、現在と、過去と、未来と全てが呪いではなく、祝福となる。
* ふなどの賛美集会で、進藤龍也牧師がメッセージをしてくださって、やくざが救われて牧師になった証しを聞き、神の栄光をほめたたえました。
② 神を礼拝する 礼拝者として
礼拝を通して証しする。共に神をほめたたえ、共に神のみこころを聞き、共に神のために働く
③ 神の為に奉仕する 仕える者として
徹底的に神の御力に頼って、自分が小さくなって、これは神が私を通して成して下さった事であると告白します。
奉仕の全ては自己実現ではなく、神がほめたたえられるためです。
私達もイエスの弟子、イエスに従う者としてイエスの、神の働きに参加します。
* 私の働きを助けて下さいではなく、あなた(神様)の働きに参加します、弱い私を助けて下さい。
神がほめたたえられる事こそが、イエスの喜びです。そして私たちの心、霊・魂も興奮・奮えるほどの喜びです。第一コリント6:19~20あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。
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