2月4日(日)礼拝説教全文
「神の許から来られたイエス」 ヨハネ7:25~36、40~44
「私はそのお方のもとから来たのであり、そのお方が私をお遣わしになったのである」(:29)
仮庵の祭りで、神殿の境内で教えられるイエスの続きとなります。
誰をもはばかることなく、自由に神殿で人々に語られるイエスのお姿があります。議員(祭司長、パリサイ派の律法学者)は、神殿警備隊を送って、イエスを捕らえようとしたが、捕らえることができませんでした。(:30)(:32)(:44)
その時(十字架の時)がまだ来ていなかったからです。誰かの計画でなく、神の計画が成し遂げられます。
先週は、イエスの教えについて、イエスはどこで、誰に学んだのか、どうしてこんなに聖書をよく知っているのか、という人々の疑問でした。イエスの聖書解釈は、誰か人に教えられたのではなく、父なる神の御心そのものです。
本日はイエスの出生についてとなります。
1. どこから来たお方なのか(:28)
キリストの素性 ガリラヤのナザレかユダヤのベツレヘムの出身か、それとも神のみ許からか
神殿の中で堂々と語っているイエスを見た群衆は、イエスを殺そうとしている人々の誰もイエスに手を出せない様子を見て、議員や祭司たちはイエスがメシアであることを認めたのではないかと噂しました。神殿の境内で活動することは、神殿を管理する祭司長・パリサイ派の議員の許可がなければできないからです。
こんなに大胆に神殿で教えられるこの人は、本当に「イエスはメシアではないか(:26)」というものです。また、「メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか」と言ってイエスを信じる者も大勢いたとあります。あの祭りの中で噂されていた人が、今、私達の前に姿を現し、神の教えを説いておられます。
イエスをどのように見るのか、揺れ動く群衆の様子があります。(:43)
しかし、彼らのつまずきはやはり、イエスがガリラヤのナザレの出身で、大工の息子で、母マリヤと兄弟、姉妹がいて、小さいころから知っていること、その素性を知っているというものでした。
メシア(救い主)が来たら、きっと誰もその素性を知る者はいないと考えたからです。
素性のわからない キリスト:メルキゼデクのように素性の知られていない王・祭司
素性の知られた キリスト:ナザレの大工の息子
前回、礼拝で、イエスの兄弟の話をしましたが、人々はガリラヤのナザレの大工の息子がキリストであるとは信じなられないのです。
7:41~42を読みますと、メシアの出生・出身について「メシアはダビデの子孫で、ダビデのいたベツレヘムから出ると、聖書に書いてある(ミカ5:2)ではないか。」これは聖書をよく知る者のイエスへの評価の言葉です。もしかすると、一般のユダヤ人たちも、メシアの出生の預言を、ユダヤのベツレヘムと知っていたかも知れません。【イエス誕生の時、ヘロデ王は祭司長や律法学者に問うていますが。(マタイ2:4)】
メシアはユダヤのベツレヘムで生まれると聖書に預言されている。ガリラヤから出るのではない。群衆はイエスがガリラヤの出生・出身だと思っていました。この博学なイエスの反対者の言葉も、イエスがメシアであることを証ししています。なぜならば、イエスはユダヤのベツレヘムで生まれたお方だからです。
イエスのほとんどの生活の場は、ガリラヤのナザレであり、宣教の場は、ユダヤではなく、ガリラヤのカファルナウムを中心としたものでした。イエスの兄弟たちもナザレで生まれ、ナザレで育ったのでしょう。しかし、群集は知りません。イエスはユダヤのベツレヘムで生まれた事を。イエスを否定する群集の言葉によって、そのイエスへの不理解の言葉を通して、イエスが聖書に預言されていたメシアであることがますます明らかにされています。
しかし驚くのは、イエスは、ご自分がユダヤのベツレヘムで生まれたとその出生について語られることはありませんでした。
「私は神のもとから来て、神から遣わされた者である」と語られています。
イエスは父なる神のおられる所から来られて、神から遣わされた(:29)お方です。
私たちの多くの人が、自分はどこから来て、どこへ行くのか、生まれる前は存在したのか、どこにいたのか、死んだ後、どこへいくのか、そんなことを考えながら、宗教の教えの中には、万物は流転するという輪廻の思想があります。しかし、聖書が私達に教える生死観は、「人は神によって造られて、キリストによって神の許へ行く」というものです。元のこの世界に流転するのではなく、永遠の御国、天国があることを聖書は私達に教えています。誰の言葉に耳を傾けるのか、それは自由ではありますが、私達は聖書の言葉に耳を傾け、聖書の言葉を信じます。そして、何に生まれ変わるのかという不安ではなく、神の御国へ行く平安と希望を得ます。
イエスは神に造られたお方ではなく、私たちを造られた神であると信じます。繰り返しますが、ナザレの大工の家に、母マリヤから、人として生まれたお方を、天から降って来られたお方と私達は信じているのです。あり得ない、途方もないことを信じていると言えるでしょう。しかし、それが私達のイエスに対する信仰です。
どうして、信じることができるのか。このお方は、私達の罪の為に十字架で死に、三日目に復活された、死人の中におられない、今も生きておられるお方だからです。そして、確かに私達を救ってくださる、救って下さったお方だからです。
2. どこへ行くお方なのか
ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところか、それとも神のみ許へか
「今しばらく、私はあなたがたと共にいる。それから、私を遣わした方のもとへ帰る。あなたがたは私を捜しても、見つけることができない。私のいる所に、あなたがたは来ることはできない」とイエスは言われます。
群集の多くがイエスを信じたのは、しるしを見たからです(:21)。そのようにイエスに従う者は、イエスについて行くことはできません。
わたしを遣わした方のみもとへ行きます(:23)
わたしを捜すが見つからない。
わたしの元へ誰も来ることはできない。
私達は神によって造られ、神の救いを受けて神のもとに帰っていく存在です。
しかし、イエスは天地が造られる前から、神と共におられ、数十年の間、人としてこの地に遣わされ、元おられた神のもとに帰られる(戻られる)お方です。
招詞のヨハネ17章3節~5節を開いて読みましょう。
イエスははっきりと「父よ、世が造られる前に、私が御もとで持っていた栄光で、今、御前に私を輝かせて下さい」言われます。
イエスが「もう探しても私を見つけることができない」と言われたので、群衆は、どういう意味なのか、イエスがガリラヤ、ユダヤを去って、小アジア、ヨーロッパに離散しているユダヤ人のところ(パウロの宣教地)へ行って教えるのか、といろいろ互いに言い合いました。
イエスがこれから向かおうとされている道は、
十字架の道、死んで葬られ、よみにくだり、三日目によみがえり、そして、父の御もとへ上られる道です。
今までしるしを求め、パンを求めてついて来た群衆も、イエスを捕らえて殺そうとしていた指導者たちも、そして、今は、イエスの弟子たちさえも、誰もイエスについて行くことはできません。
(十字架の上でイエスと共にはりつけにされた強盗のひとり以外は。)
私たちを救う為に、私達に場所を用意して迎える為に、イエスがひとり歩まれる道なのです。
神のみ許から来られて、ご自身の命を賭して地上で神による私たちの救いの道を開かれ、父の御もとに帰られ、場所を備えて私たちを迎えて下さるお方がイエスです。そのような意味でヨハネ14章1~6節を新たに読みますと、違ったイエスの言葉の光景が見えてきます。
神から遣わされたキリスト、メシア(救い主)はイエスです。
私たちはこの救い主に捕らえられ、新しい命を与えられ、そしてイエスから人々に遣わされた者として、新しい人生をスタートさせています。
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