2月11日(日)礼拝説教全文
「生ける水の川」 ヨハネ7:37~39、45~53 中心聖句 :37~38
能登半島地震の被災者の方々の為に祈り続けましょう。
イエスの公生涯が3年間と言われるのは、ヨハネによる福音書に、イエスが弟子たちと過越しの祭りに上られた記事が3回あることからです。(2:13、6:4、11:55)
イエスは祭りの度にエルサレムに上られていますが、その宣教のほとんどはガリラヤにおいてでした。しかし、イエスの生涯を記す福音書の記事は、最後の一週間の出来事が詳しく記されていることと、ユダヤに行かれた時の出来事が詳しく書かれている(特にヨハネ)ことから、イエスが主にユダヤで宣教をされたような印象を私たちは受けます。ヨハネ7章は仮庵の祭りでの出来事を記していますが、その後もユダヤ、エルサレムでのイエスの記事が長く続きます。
仮庵の祭り
仮庵の祭りは、以前にもお話ししましたが、モーセとイスラエルの民の40年間の荒野での天幕(仮の家)生活を記念する祭りです。神はモーセとイスラエルの民を荒野で昼は雲の柱、夜は火の柱をもって導かれました。この祭りは10月頃、秋に行われる祭りです。安息日の土曜日~次の土曜日迄8日間、特に祭りの最終日、安息日には多くの人が神殿に集まり、集会を開いて、生贄をささげ、最も盛大に行われます。
テーマは「光と水」の祭典です。
「光」はイスラエルを導いた火の柱、「水」はモーセが岩を叩いてイスラエルの民に飲ませた水を示します。また、水は命を示します。図らずも、ヨハネの福音書のテーマである「光と命を与えるイエス」です。
イエスの時代には、仮庵の祭には神殿の境内の中庭に大きな灯篭が数多く並べられ、大きな火が灯されます。神殿は白色のエルサレムストーン(おみやげ品になっています)で作られているので、都がその光で照らされます。現代では、イスラエルを照らす神の臨在の「火の柱」を多くの電飾(14万4千)によって輝かせ、祭りが行われます。そのような中でクリスチャンは「私は世の光である」と言われたイエスの言葉を受け止めます。
また、「水」の祭典でもあります。仮庵の祭りの間、毎朝晩「シロアムの池」から黄金の器を持って水を汲み、その水は神殿に運ばれ、動物のいけにえや収穫の供え物と共に祭壇に注がれました。エルサレムの小高い丘の神殿まで、その水が運ばれていきます。
1、祭りの最も大事な日に、群集を招かれるイエス(:27~28)
祭りの終わりの大いなる日(最も盛大なメインイベントが行われる日)に、イエスは、神殿に来る人々に向かって、立って大声で言われた。一番大事な、祭りの主役の場に立たれたイエス。
その招きの言葉を本日は中心として耳を傾けたい。
(:27~28)
● 「渇いている人は誰でも、わたしのもとに来て飲みなさい。」
私たちの渇きとは何か
パスカルが書いた「パンセ」という本の中で、「人には神によってしか満たされない空洞がある。神がその空洞を満たしてくださる時、人は生きる」と言っています。イエスの言われる「渇いている者」の渇きは、喉の渇きではないことがわかります。サマリヤの井戸のそばで語られたイエスの言葉と同じです。
その渇きを満たすとは、全人的満たしです。それは欲望ではなく、人のあらゆる必要の満たしです。
心・からだ・魂の満たし、すなわち肉体的健康・精神的健康・信仰の満たしであり、
経済的・社会的、人間の営みのあらゆる領域においての(ホーリスティク、全人的な)癒し・満たしです。「シャローム、平和がありますように」という言葉は、あらゆる満たしを含んでいます。シャロームがあなたにあるように。
そして、その渇きの癒しは、お金でも知識でも名誉でもなく、時には健康でも趣味でも仕事でもなく、さらには家族でも友人でも恋人でもなく、イエスのもとで受け取れます。「わたしのもとに来て、飲みなさい」
● 「わたしを信じる者は、」
信じるとは、信仰によって命の水を受け取るとは、イエスに対する信仰、イエスに対する信頼・期待です。親に求める子のようなものです。
イエスのもとへ行き、イエスを求め、イエスを信じることです。
その生ける水の受け取り方は、信仰によってのみ受け取ることができるのです。
お金でも、奉仕でも、何かの人間の業、徳を積んでも交換、受け取ることはできません。
神の恵みの受け取り方があります。空にした手で受け取ることです。なにか他のものを握っていては受け取れません。奉仕や、ささげものというのは、神の恵みに応えてする感謝のしるしです。
順番は、信仰によって受け取り、感謝のささげものをもって(物に限らず)神をほめたたえます。
● 「聖書が語ったとおり」
イザヤ44:3 エゼキエル47:1~5
神のもとから生ける水が流れ出、神の宮である私たちを通して生ける水が川となって流れ出ます。そして、渇いた地が潤され、全てのものが生きます。
● 「その人の内から」
人の表面的なものではなく(表面的なものはすぐにわかります)、その人の根幹から出てきます。
表面的なものを変えても、またもとに戻ってしまい、何も変わりません。
● 「生ける水が川となって流れ出るようになる。」
渇きが潤されるだけではなく、尽きることのない泉を持つ
自らが潤されるだけではなく、周りを潤すことのできる人となります。
イエスのもとで生ける水を受けて、その受けた人から水が川となって流れ出る、その実例とは何でしょう。
イエスは、ご自分を信じた人々が受けようとしている霊(聖霊)について言われました。
使徒行伝2章から、世界中のイエスを信じる人々に、このみ言葉は実現します。ペンテコステの聖霊の満たしの出来事が記されています。
2、主イエスの招きの言葉を聞いた人々の反応
○(1) 主イエスに対して心が揺れる群集(:40~43)
「あの預言者だ」「メシアだ」「メシアではあるまい」群衆の心は揺れ動きました。
○(2) 反対者たちの対応(:44~52)
仮庵の祭りのメインの集会の場においても、誰もはばかることなく公然と大声でイエスは人々を招かれました。議員、祭司、パリサイ人は、役人、神殿警備隊を送って、イエスを捕らえようとしましたが(:32)彼らは何もできずに戻って来ます。(:44~47)
ここでも繰り返し記されますが、その時がまだ来ていなかったからです。
* ニコデモの弁護(:30~32)
ヨハネの福音書3章で、約1年数か月前に、夜イエスを訪問したサンヒドリンの議員であるニコデモがここで登場します。イエスをきちんと調べたうえで判断することを勧め、イエスを弁護しています。しかし、他の議員たちは、「あなたもガリラヤ出身なのか」とニコデモに答えています。
今日、私たちはイエスのもとに集っています。イエスを信じ、生ける水(聖霊)を受け取りましょう、私たちの心の奥底から、その生ける水が川となって流れ出ます。
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