2月18日(日)礼拝説教全文

「私もあなたを罪に定めない」  ヨハネ8:1~11

仮庵の祭りも終わって、翌朝早く神殿の中で、再び民衆に教えられるイエスの姿があります。

その静寂を破るように、イエスのもとへ引っ張り出されて来たひとりの女性がいました。姦淫の現場を押さえられ、捕らえられた女性(:4)でした。この箇所は、聖書教会共同訳でも、他の訳でも鍵カッコに括られていますが、ヨハネによる福音書の古い写本に記されていないものもあります。それを踏まえた上で読まなければなりません。

イエスに敵対している律法学者とファリサイ派の人々(当時の宗教的指導者)は、なんとかイエスを告発する口実を見つけるために(:6)このような強硬策に出ました。イエスが律法に従わない者であることを証明するためです。姦淫の相手の男性がいないことから、これは律法学者とファリサイ派の人々の周到な策略であることがわかります。(:3)

「姦淫の罪を犯したものは、モーセの律法では(レビ記20:10、申命記22:24)石で打てと命じられています。あなたは何と言われますか。」(:5)

もちろん、イエスの答えは彼らにはわかっていました。常に愛と赦しを説いているイエスであるゆえに、「赦してやりなさい。」と言われる事でしょう。そうであればモーセの律法に反する者としてイエスを告発できます。

彼らが鼻息荒く、イエスに詰め寄る中、イエスは意外な行動・態度をとられます。彼らの質問に答えることなく、その場にかがんで、指で地面に何かを書いておられました。

しばらくの時間、彼らの激しい興奮した訴えが続きますが、ついに主イエスが立ち上がられます。

そしてこのように言われます「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」そして、再びイエスはかがんで、指で地面に書き続けられます。

何を書いておられたのかわかりませんが、イエスが何かを書いておられるという記事はこの箇所だけです。イエスが書き残された物は何一つありません。ある人は十戒を書いておられたのではないかと憶測しますが、定かではありません。これは、永遠の謎で、人が天国に行ってからイエスに何を書いておられたのか尋ねる他ありません。

仮庵の祭りのテーマは、「水と光」であると前回お話ししました。次回の説教ではヨハネ8:12の「私は世の光である。闇のうちを歩くことがない…」の聖書の箇所を読みますが、この仮庵の祭りでの、姦淫の女の記事には、実に人間の闇が克明に語られており、その闇の中に輝く光として、イエスの御姿を見ることができます。

第一の闇は、姦淫の女の闇です。隠れていた罪が人々の前に明らかにされる、恐ろしさ、恥、とりかえしのつかない罪の現実です。有名な人が痴情のもつれで地位や名誉、仕事まで失います。昨日の夜まで罪を楽しんでいた女は、一転して朝にはその撒いた種を刈り取ることとなります。律法学者とファリサイ派の人々による罠であったかも知れません。又、貧しさの故に身体を売っていた女であったかも知れません。

神殿の民衆の前に引き出されて来た女。罪が暴露されることほど恥ずかしいことはありません。隠れている間は、罪は恐ろしくなく、却って甘いものかも知れません。しかし、光の中であらわにされる時、人は後悔と、恥ずかしさに打ちひしがれます。

この女は、もう隠し通すことのできない深い闇に沈んでいることがわかります。石打ちを逃れることはできません。

第二の闇は、この律法学者とパリサイ人たちの闇です。女を断罪するばかりか、罪を犯した女を民衆の前に恥じ入らせて、そして、イエスを陥れようとする嫉妬と、ねたみに歪んだ心と行為です。女を罪に定め、正義をふりかざそうとするこれらの人々には、さらに深い闇があります。姦淫の行為を犯した女が罪深いのか、この女を引いてきた彼らのほうが罪深いのか、とさえ思わされます。彼らの中にも同じような罪を犯していた者がいたかも知れません。同じ罪を犯している者が、顕わにされた者の罪を責め、裁くのです。

第三の闇は、それを取り巻いている民衆の闇です。

民衆は最初は、他人事として物見気分で、この結末はどうなるのか見ていたでしょう。ある者は「こんな汚れた女は石で打ち殺してしまえ」と正義感で怒りを覚えた者もいたでしょう。罪が表沙汰にされた者を、関りのない者も散々叩きます。まるで、興奮する律法学者やパリサイ人と同じ気持ちになっていた者もいたでしょう。人間は集団になると残酷です。イエスを「十字架につけろ」と叫んだ群衆がそうです。

私達は犯罪者に対して、怒りを覚え、断罪して、このような者は生かしてはおけない、と言います。

しかし、「まず罪のない者が、最初にこの女を石で打て」とイエスが言われた時、(:9)不思議な順番であると思いますが、年長者から始まって、そこにいた全ての人がその場を去って行ったのです。

罪の女を指差していた指が、自分に戻ってきたのであります。

私達が「おまえが悪い」と指さします時に、残りの3本の指は自分に向いているのを知ります。

ひとり、またひとりと立ち去っていく民衆。ここに闇があります。罪のない者は誰もいません。

姦淫の罪を犯していてもいなくても、私達は罪人なのです。

イエスの言葉を聞いて、いつ、自分が断罪される場所に立たされるかわからないことを覚え、自分の内にある闇を知ります。人は年を重ねるほどに罪を重ねていきます。年長者から去っていった通りです。

自分の罪が裁かれる者。人の罪を裁く者。そしてそれを傍聴する者。人はどこにも立ち得るのです。また、誰もが、裁きの座に自分が立たなければならない罪人であることを知っています。

「罪のないものはいない。だれひとりいない」誰も石を投げられない。私も、あなたも罪人なのです。

全ての人はその罪のゆえに、罪を隠し、闇をかかえ、闇の中を歩いています。

犯罪を行って顕わにされる罪もそうですが、憎しみや怒り、ねたみ、傲慢など、私たちの内にある顕わにされない罪があります。また、気がつかないで犯している罪があります。人は罪人であるゆえに罪を犯します。罪を犯して罪人となるのではないのです。

女を責め、イエスに詰め寄った者は皆、去っていきました。

もう一度、イエスは立ち上がられ、女に言われます。

「女よ。あの人たち(あなたを訴える者たち)はどこにいるのか。誰もあなたを罪に定めなかったのか。」(:10)「主よ、誰も(いません)。」(:11)

姦淫の女も、律法学者・ファリサイ派の人々も、民衆も、そして私もあなたも、全ての人は罪の渦巻く闇の中にいます。その只中に立たれるイエス。それが本日の聖書箇所です。暗闇の中の唯一の光、それが罪のないイエス・キリストです。

そして、罪のないイエスだけが、この罪の世から、闇の中から、私達を救うことのできる、ただひとりの救い主なのです。

最後に私達は、イエスが女に言われた驚くべき、救いの言葉を聞きます。

「私もあなたを罪に定めない。」

「行きなさい。これからは、もう罪を犯してはいけない。」

罪の赦しをいただいた女は、再び姦淫の場に戻っていったでしょうか。戻ることはなかったと思います。

「私もあなたを罪に定めない。」十字架の上で私たちの罪を身代わりに負って、命を捨てて下さったイエスの力ある、命ある宣言の言葉です。イエスの十字架の贖いの死によって、神があなたを罪に定めません。

イエスは石を投げることのできる、ただひとりのお方です。

しかし、イエスは石を投げるためにこの世に来られたのではありません。

その石をご自身が受け、石で打たれるべき罪人を救う為に来てくださったのです。

十字架とは、罪なき神の御子が、私達の代わりに罪人として、神に打たれている姿なのです。

今日もイエスは、十字架の釘跡を私たちに示して、

「私もあなたを罪に定めない」と宣言されます。

あなたの罪の赦しは、十字架で成し遂げられています。

イエスを信じて、この「救い」を受け取りましょう。

竹田広志's Ownd

千葉県八千代市勝田台7-27-11 電話 0474-84-5045 牧師 竹田広志

0コメント

  • 1000 / 1000