2月25日(日)礼拝説教全文
「世の光イエス」 ヨハネ8:12~20
先週は、姦淫の女の記事を通して、人の深い闇について触れ、その中で「罪のない者が、石を投げなさい」というイエスの言葉に、罪のない者は一人もいない、誰かではない、私たちの闇、私たちの真相を見せていただきました。しかし、イエスはその罪の中にある私たちを裁くためではなく、その罪を赦し、その罪から救うために来られた、というメッセージを聞きました。
仮庵の祭りは。「光と水の祭典」です。祭りで、丘の上の神殿の灯篭に火が灯され、エルサレムの街を神殿の光が照らしていました。出エジプトにおいて、荒野を夜の暗い中も、モーセとイスラエルの民は、神である主の臨在である火の柱によって導かれました。
そのような神の光に導かれて荒野を旅したことを記念する祭りを背景にして、イエスは「私は世の光である」とご自身について宣言(証し)されています。「私に従って来るものは、決して闇の中を歩くことがない。」そればかりでなく、「その人の内に命の光を内に持つのだ」と言われます。
・ 未来の闇(先行きの不安、希望のない未来)
「一寸先は闇」という日本の諺がありますが、一寸とは、3.03cmです。そのようなすぐ目の前の未来さえも私達は予測することができません。地震予測の研究がなされていますが、どこの地域でこれから先何十年以内に大きな地震があると言われていても、全く予想もしなかった別の場所で壊滅的な地震が起こります。決して脅すわけではありませんが、私たちの心臓が鼓動を続ける保証もありません。
* 春の暖かさを感じる頃になりますと、熊本教会の井上真樹師の娘さんの奏音ちゃんのことを思います。
・ 試練の闇(生活苦、健康、災害、いじめ)
私たちの人生とは、闇の中を手探りで歩いているような状態ではないでしょうか。将来に対する人生設計や目標は大事ではありますが、本当にどのような未来が私たちの行く先にあるかは誰にもわかりません。
私たちの人生という航海には、私たちの進むべき航路を導いてくれる「灯台」が必要です。
闇の中を、長いトンネルを進んでいるような、又、出口のないような困難に突き当たることもあります。
慢性的な経済的な不況によって、闇の中を歩み続けるときがあります。(私が卒業するときには、不況が終わって、仕事が増え…)
社会的な人間関係で闇の中を歩むことがあります。家族(夫婦・親子・兄弟・親族)・会社・友人関係・男女関係・隣人関係
肉体的、精神的な厳しい病と向き合う時もあります。
また根本的な問い、人間の存在についての問い(何の為に生きるのか、人の生きる目的は何なのか)、生きがいが見つからない、そのような闇を抱えることもあります。私たちの心は弱く、すぐに暗闇に支配されてしまいます。
* とても明るくばりばり働いていた人が、数年後に変わり果てていた。
・ 人の内にある闇(止まらない欲望、恥)
悪・罪 情欲・欲望 ガラテヤ5:19~21
欲望(不品行、汚れ、好色)
怒り(敵意、争い 憤り)
ねたみ(そねみ、党派心、分裂、分派)
怠惰(酩酊、遊興)
偶像礼拝(魔術)
・ 死
「もっと光を」 詩人ゲーテの最後の言葉として有名です。死に際、どんな光を求めたのでしょうか。死という闇
死に際に私たちに何が見えるのでしょうか。
* 松村悦夫師は「冠が見える」と仰ったと聞いています。
どうしてこの朝、こんな暗い現実を聞かなければならないのかと思う方もおられるかも知れませんが、闇が深ければ深いほどに、その中で灯は明るく輝きます。
人間の英知、電気によって人の世界の夜は明るくなりました。闇に目を背けて、人に心地よい多くの楽しみに人は目を向けるようになりました。神の造られた世界は本当に美しいものでありますが、人間が創造の力をいただいて作った世界も美しいものです。豊かな暮らし、多くの持ち物、高価な持ち物、人の作った光を人は求めますが、神が照らされる輝きを見失っています。
イエスは言われました
「私は世の光である。私に従う者は闇の中を歩まず、命の光を持つ。」(8:12)
エゴー・エイミー「私は ある」
このイエスの言葉の背景には、力強い神の宣言のことば(わたしは在る 神がモーセに言われたことば 出エジプト3:14)があります。「これは私の証しであり、私を遣わした父の証しであり、真実である」とイエスは繰り返して言われていますが、私たちは誰の証言に耳を傾けて、「アーメン、真実です」と答えるのでしょうか。
ヨハネの福音書8章の姦淫の女の記事の最後では、かつて3章、5章、6章、7章でも繰り返されたユダヤ人とイエスとの同じ内容の対話がここでも記されています。「その(=イエスご自身・私の)証しは真実である」(:14)と言われました。
「命のパン」についての対話の途中で、「これはひどい話だ。誰がこんなことを聞いておられようか」(6:60)という人々の反応でしたが、8章の最後の対話の中で、「よくよく言っておく。アブラハムが生まれる前から『私はある』」と言われると、ユダヤ人たちは、神殿の境内であるにも拘わらず、イエスに石を投げつけようとまでしています。(8:58~59)
イエスは世界を照らす光、神の光なのでしょうか。「神は光であって、少しの暗いところもない」(第一ヨハネ1:5)。イエスは光ある神なのでしょうか。イエスは世界が造られる前から『私はある』お方なのでしょうか。その証しは真実なのでしょうか。
私たちはこの朝、「アーメン。あなたの証しは真実です」と、神殿の境内ではなく、神の宮であるこの会堂で、よみがえられて今も生きておられ、ここにおられるイエスにお答えします。
姦淫の女の罪の赦しに始まるヨハネ8章ですが、次の9章は「生まれつき目の見えない人を癒す」イエスのしるしがあります。光を得た男、見えないものが見えるようになった男の癒しです。
私たちは実際見えています。しかし、本当に見えているでしょうか。
イエスの光を信仰をもって受け入れて命の光を持つ者とは、何が見えるようになるのでしょうか。
エフェソ1章15~23節の言葉はとてもすばらしい、私も大好きなみことばです。
エフェソ1章18節、「心の目が照らされ」ると、何がはっきりと見えるようになるのか。神の招きによる希望、聖なる者が受け継ぐもの、イエスを信じる者に力強く働く神の力、とあります。それらが見えるようになって、私たちはますます、知恵と啓示の聖霊によって、神を、イエスを深く知ることができるのです。
イエスの照らす光は、目に見えないものを、目に見えない神を、目に見えない神の祝福・力を見えるようにする光です。
霊的覚醒をいただきましょう。
神との交わり、私たちの交わり、御子イエス・キリストの贖いを受け取りましょう。
光は見えないものを見えるようにします。 奥義の覆いが取り去られて、明らかになり、
真理を明らかにします。
私たちの人生には闇が無くなることはありません。
しかし、イエスに従う者は、闇の内を歩くことはなくなります。
イエスご自身が 私たちの光だからです。
その光は、たとえ私たちに必ず臨む死であっても奪うことはできません。
太陽の光がなくても、私たちには主イエスの光があります!
命の光を持つ。
どんなに私たちの周囲・環境が変わっても、私たちは今、命の光を持っています。
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