6月30日(日)礼拝説教全文
「石を取りのけなさい」 ヨハネ11:28~44
(ラザロが生き返る出来事を2回に分けて その2)
「いまだかつて、神を見た者はいない。父の懐にいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(1:18)「私を見た者は、父を見たのである」(14:9)
神はどのようなお方でしょうか。
イエスがどのようなお方であるかを知ることは、神はどのようなお方であるかを知ることです。
私たちは、神は完全なお方であり、全てにおいて冷静な理性的なお方であると思いがちです。
しかし、私たちはイエスを見て、神を見ます。
神はおこころを動かされるお方です。
何でも決められた通りに、何の感情もなく成されるお方ではありません。旧約聖書においても、これは逆説的な言い方になりますが、とても人間的な(人が神に似せて造られたのですが)情緒豊かなお方です。
心あるお方 理性は完全で、感情は不完全なように思われますが、神は悲しみも、喜びも、時には怒りも持たれる心豊かなお方です。全てにご計画的なお方ではありますが、時にはおこころで動かれるお方です。
理性的な人、感情的な人という、性格を表わす表現がありますが、イエスはどのようなお方だったでしょう。
理性と感情が見事に調和されたお方です。ルカはイエスを完全な人(理想的人間)としてキリストの生涯を書いています。パーフェクトヒューマン
前回、ラザロの死という出来事を通し、「愛する者の死」という大きな悲しみにあって、「死」という人間が決して克服する事のできない絶望の中に、悲しみとあきらめが渦巻いている人々の中に、イエスが立たれている、とお話ししました。ここにいます私達の人生における悲しみや、絶望の只中にもイエスは立っておられます。
詩篇の中に「どのようにして私は主の前を逃れることができようか。神は天にも黄泉にも私のそばにおられる。」(139:7~10)という言葉がありますが、私達は、喜びの中にも、悲しみの中にも、どんなところにもイエスを見出すことができます。「神我らと共にいます」これが私達の唯一の慰めなのです!
イエスは、マルタとマリアの家に行かれないで、直接ラザロの墓へ行こうとしておられました。イエスはマルタを遣わしてマリアを呼ばれます。マリアと、共に家にいた者たちも、イエスのおられるところに来ます。マリアはイエスを見て泣き崩れ、イエスの前にひれ伏してマルタと同じことを言います「主よ、もしここにいて下さったなら」{「もし、こうであったなら…」}イエスは、悲しみに沈んで泣いているマリア、そして、マリアと一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になられます。イエスはその時、「(霊の)憤りを覚え、心を騒がせ」られました(心の感動を覚えられた)(:33)
そして、またも心のうちに憤りを覚えながら(:38)心を奮い動かされて、涙を流されます。Jesus wept.
He was deeply moved in spirit, and was troubled.
イエスの憤り・感動とは何か
人の死に対する憤り
イエスは、死を滅ぼし、永遠の命を与える為に、この地に来られた。
人の最大の敵は「死」
* ある聖書学者は、この憤りは、兵士が闘いに赴く前の鼓舞のような感情だと言っています。「死」という敵に向かわれるイエスの姿がここにあります。
「イエスは涙を流された」
イエスは涙を流された(:35) ギリシア語の聖書の中で最も短い文(節)冠詞をいれて3語 エダクリュセン・ホ・イエスース Jesus wept. イエスは涙を流された
何でもおできになるイエスは、ラザロを生き返らせるために来られたのなら、この後どうなるかもご存知なはず。
しかし、イエスは涙を流された。
イエスの憤り、感動、涙は どのような主のおこころ(感情)であったのか。
冷たい人のことを、血も涙もない人と言いますが、私達の神は、文字通り、血も流れ、涙も流される、心温いお方です!
イエスとて、人としての繋がりがあり、全ての人を愛しておられたであろうが、関わりの深かった弟子たちや、このマルタの妹弟には親しさを感じていたでしょう。人々はイエスが涙を流しているのを見、「どんなにラザロを愛していたのか」「盲人の目を開けた人も、ラザロのために間に合うことができなかったのか」と言います。
葬儀の席で、愛する者の死を、親しい者の死を、悼み悲しむ涙は、大いに流していいものだと思います。
その人を愛していたのですから。
「石を取りのけなさい」
イエスはラザロの遺体が納められた墓に到着し、「石を取りのけなさい」と言われます。
マルタは答えます「死んで4日もたって臭くなっています」…それは全く望みのないことを告げる言葉です。
イエスはマルタに言われます「もし信じるなら、神の栄光を見ると言ったではないか」。
これは、「主よ、どうにもなりません。不可能です。」と私たちが人生のそのような場面に出くわすたびに口にする時に聞く、イエスが言われるお言葉です。この教会の会堂建築の時も、教会が危機的な出来事に瀕した時もそうでした。
そして、重く塞がり、閉じている石を取りのけるのは、私達がすることです。
イエスは、ご自分で石を取り除け、ラザロをそこから出すこともお出来になったでしょう。
私達の人生には、望みのない悲しい出来事が起こり、大きな石、すなわち、神に目を向けず、神に望みを持たず、ただ悲しみに心が塞がれている時があります。心の中の大きな石、それは信じない心、不信仰です。
「この状況は、今さら神に祈っても、求めてもどうにもならない」という不信仰です。
理性的に考えてどうにもならない、という私達の常識であり経験です。
死者の納められている墓の、墓石を取りのけることは、非常識なことです。
しかし!イエスが「石を取りのけなさい」と言われるのです。
人々はイエスの言葉に従い、石をとりのけます。
イエスの祈りのことば
死との戦いに臨まれ、祈られるイエス
「父よ、わたしの願いを聞いてくださったことを感謝します」。ラザロを生き返らせることは、イエスの願いです。そして、そこにいる悲しみに沈む人々が、神の栄光を見て、信じる為です。
祈りをささげ、イエスは大声で「ラザロよ、出て来なさい」と墓に向かって叫ばれます。 この出来事は、永遠の命を与えることのできるお方、神の御子としての「しるし」です。墓(死者)に向かって叫ばれるお方 それは、イエスただおひとりだけです。
私たちの名も、やがてイエスによって呼ばれ、私たちは新しい命に復活します。
イエスはご自身を信じる者に、よみがえりの命、永遠の命を与えて下さいます。
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は死んでも生きる」「あなたはこれを信じるか」
0コメント