7月14日(日)創立53周年記念礼拝 説教全文
「今の時を生かして用いる霊的洞察力」 ヨハネ12:1~11
(イエスの十字架の恵みに対する感謝と献身)
聖書協会共同訳見出し ベタニアで香油を注がれる
4つの福音書は、共通して、特にイエスの最後の一週間の出来事に多くのスペースを用いて書いています。いかにして、イエスは捕らえられ、十字架へ向かって行かれたのか。そして、よみがえられたのか。イエスの生涯の中で最も大事なメッセージとなります。
最高法院サンヒドリンはイエスを逮捕する為に「イエスの居所が分かれば届け出をせよ」という命令を出していました。そのような中、なぜイエスは公然とエルサレムに上られたのでしょうか(12:12~)。本日の記事のベタニアでの食事の出来事は、過ぎ越しの祭りの6日前とあります。
① 「過ぎ越しの祭り」とは
これまでも礼拝で何度もお話ししていますが、神がモーセという指導者を立て、エジプトの奴隷生活の中にあったユダヤ人を解放し、エジプトから脱出させた記念の祭りであり、ユダヤの最大の祭りです。
どんな奇跡・災いがエジプトに下っても、エジプトの王パロは、心をかたくなにしてユダヤ人を奴隷から解放することを承諾しませんでした。しかし、「全ての生けるものの初子を打つ」という神の下された災いによって、パロ王は、自らの長子(世継ぎ)をも失い、心を折られ、ユダヤ人を解放します。
神の裁きが、全ての生き物の長子を打つ。ただし、家の鴨居に「小羊の血」を塗ったしるしのある家は、裁きが「過ぎ越される」。子羊の血が流され、小羊の命が犠牲となって、その家の裁きは過ぎ越されるというものでした。
小羊の血が、その命が犠牲となって、神の怒り、裁きが過ぎ越し、そして、その出来事を通してユダヤ人はエジプトの奴隷生活から解放されました。それが過ぎ越しの祭りであり、イエスが十字架で命を捨てられたのは、まさにその過ぎ越しの祭りの時でした。4つの福音書とも、イエスが十字架で死なれたのは、「過ぎ越しの祭りの時」に、と記しています。過越しは、イエスの十字架の意味を明確に私たちに伝えています。
いよいよ「人の子が栄光を受ける時」(12:23)が来ました。私たちの救い主イエスの最大の使命、全ての人の罪を身代わりに背負い、血を流し、命を捨てる、十字架の時が来ました。
② 他の福音書との対比
香油注ぎの記事(並行箇所) マタイとマルコでは、食卓で一人の女がイエスに香油を注いだとあります。マタイ26:6~13、マルコ14:3~9 規定の病を患っているベタニアのシモンの家で、一人の女がイエスの頭に香油を注ぎます。頭に注ぐのは、王として認められる、又、埋葬の用意としての意味があります。マルコは、香油の壺を壊して、イエスに香油を注いだとあります。
本日の箇所では、ベタニアで、その食卓にはマルタ、マリア、ラザロがいました。過ぎ越しの祭りの6日前の出来事です。マリアがイエスの足に香油を注ぎます。十字架の葬りの用意として(12:7)。
3つの記事は内容が重なっている部分と、全く違う部分がそれぞれにあります。
(*参考)ルカ7:36~50 イエスがガリラヤで宣教されている時、パリサイ人シモンの家で、罪深い女がイエスの足に香油を注ぎます。それは、罪赦された感謝としての行為でした。
③ ヨハネによる福音書の「マリアの香油注ぎ」
イエスの為にもたれた晩餐でした。ベタニアのどこの家かは記されていませんが、そこにマルタ、マリア、ラザロがいました。(既定の病を患っていたシモンの家かも知れません)
多くの人がイエスに会いに、また、生き返ったラザロを見るために(:9)集まっていました。
本日の記事は、その食事での出来事となります。
マリアは以前から用意していた非常に高価なナルドの香油326グラムを持ってきて、イエスの足に全てを注ぎ、髪の毛でそれを拭いました。これまでの人々の注目はイエスと、生き返ったラザロでありましたが、人々の目は、イエスの足元にひれ伏したマリアに向けられます。
イエスの弟子のイスカリオテのユダは憤慨して、マリアの行為を非難します。マリアを非難したのがユダと名指ししているのはヨハネによる福音書だけです。
「なんともったいないことをするのか。その香油を300デナリオンで売って、貧しい人に施すことができたであろう…(それこそが日頃、貧しい人に憐れみを示しておられる主のおこころではないか)」
イエスがいつも貧しい人々に施しをされているのを知っていたユダは、そのようにマリアを責めます。もったいない。これは主のおこころではない。主が望まれることではない。
しかし、ユダは貧しい人々を気にかけていたのではなく、お金をいつも盗んでいた(:6)と、これもヨハネによる福音書だけがユダの言葉の本心・動機を記しています。
* ヨハネによる福音書は、特にユダに関して赤裸々にその悪意を記しているのがわかります。
さて、本日の説教のテーマとなりますが、マリアはどのような思いで、このようなことをしたのでしょうか。直接的には、弟のラザロの命を救って頂いた事への、何にも代えがたいイエスに対する感謝と、愛情を精一杯表したのであろうと思います。
髪の毛は女性にとって大切なものです。香油の壺を割って(マルコ)、一部ではなく、全てをイエスの足に注ぎます。打算的な愛の好意ではなく、敬虔なへりくだった態度でイエスの足元にひれ伏しています。ここにマリアの献身と愛情の最大の表現があります。純粋な高価なナルドの香油の香りが家いっぱいに拡がります。全てを主にささげる。それは、献身の行為であり、礼拝者であるキリスト者の姿を表しています。感謝、愛、献身。
しかし、この本日のマリアの行為の一番の注目すべき点は、マリアがそのことを知った上でした事ではなく、これは、「イエスの葬りの準備」となったということです。イエスの他に、誰もイエスが十字架の苦難と死に向かっておられる事を知りません。ラザロの一件で、弟子たちも有頂天であったかも知れません。
マリアの霊的直感。それはイエスに対する最後の奉仕を予感させていました。マリアはいつものんびりした、周りに気遣いの少ない女性のようではありますが、ここという時に、イエスの為に最も必要な奉仕をしています。イエスへの愛から来る、イエスを慕う霊的洞察力から来る行動がここにあります。
香油を注ぎ、髪の毛で足を拭うマリアをイエスはどのようにご覧になっていたでしょう。孤独な十字架の道にあって、「私の埋葬のために、それを取っておいた」というイエスの言葉は、どのように私たちの心に響くでしょうか。
十字架を前に(マリアは具体的には何も知らないと思いますが)、このベタニアで、この場所でイエスが共に過ごされた最後のこの時、どんな高価なものを献げても無駄になるどころか献げ足りない。どんなにし過ぎても、それがイエスに対する感謝と献身を表すに足りないことをマリアは知っていた、という事です。
彼女は今、何をすることが、「主の為に」必要なのかを知っていました。彼女の働きは、何という後世に語り伝えられる、主に喜んでいただける、主に対する大きな働きでしょうか。
一回きりの私たちのキリスト者としての生涯。打算的でない、「これぞ私の全力で成すべき主への奉仕」を果たす者でありたい。主のみ思いを、人生の出来事のあらゆる機会に主のみこころをキャッチし、主に喜ばれる歩みを実践したいと願います。
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