7月21日(日)礼拝説教全文
「ろばの子に乗った王」 ヨハネ12:12~19
イエスは公生涯で3度、過ぎ越しの祭りに出掛けられたことが聖書の福音書に記されています。それでイエスの公生涯は3年と言われます。そして今回が、公生涯3度目の過ぎ越しの祭り、イエスの生涯の最後のエルサレム入りとなります。
神の御子として多くの「しるし」を人々の前でなされ、その中でもベタニアで、死んだラザロを生き返らせたことでイエスの評判は、絶頂に達します。そして、多くの人々がイエスを信じました。それを知ったイエスの反対者たちはイエス殺害の計画を立てます。光と闇がイエスの生涯に対照的に交錯しています。
① イスラエルの王(:12~13)
民衆の大きな期待 イエスの反対者がイエスの居所が分かれば届け出をせよと命じていた最中、イエスは人々の中を公然とエルサレムに入られます。民衆は大歓声でイエスを迎えます。群衆がイエスを出迎えたのは、ラザロを墓から呼び出し、死者の中からよみがえらせたという「しるし」の影響だったことがわかります。 過越の祭りに来ていた大勢の群衆はなつめやしの枝や、上着を道に敷いて、イエスを出迎え、大声で叫びます。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。イスラエルの王に」
以前にもヨハネ6章で、5千人の給食の「しるし」の後に、「イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとするのを知り」山に身を隠されたことがありました。(ヨハネ:14~15)
イスラエル(ユダヤ人の国)は、かつては先祖がエジプト人に支配され、後、アッシリア、バビロン、ペルシャ、ギリシア、ローマの国々に次々に支配されるという特別な歴史を持っていた国です。国民はばらばらに離散して、なんとかこれら外国の支配、占領の歴史から解放され、独立することを願っていました。いつかもう一度、ダビデのような力強い王が立って、この国を、私達を救ってくれるに違いないと信じていました。そのようなキリスト、メシヤ、救い主が来られるのを待っていたのです。ユダヤの民衆には、奴隷生活、圧制、支配からの解放、独立、自由への熱い願い、思いがありました。
そして! 数々の驚くべき奇跡を起こし、死人をすら生き返らせたイエスこそ(:17~18)、我らの救い主である!このお方が長く続く他国の支配の歴史の中から、ローマの圧制の中から、イスラエルの王となって私たちを救い出して下さるに違いない、と信じていたことがわかります。
盛大なパレード。大歓声の中迎えられるイエス。何度も言いますが、こそこそと隠れてエルサレム入りされたのではない。大群衆に迎えられた入城。真のユダヤ人の王の凱旋です。
イエスの反対者は、余りにも大勢の群衆の熱狂ぶりに「見ろ。何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行ったではないか(:19)」と言っています。居所がわかれば届け出をせよ、どころではない。公然と群集に迎えられてエルサレム入りされるイエスの姿があります。
② ろばの子に乗って(:14~16)
イエスは大勢の群衆の歓迎を受け、エルサレムに入られますが、ろばの子に乗ってエルサレムに入られます。(:16)弟子たちは、なぜイエスが、敢えてろばの子を探し見つけ、準備されて、ろばの子に乗ってエルサレムに入られたのかわかりませんでした。しかし、後にそれが旧約聖書の預言の成就であることを知ります。
ゼカリヤ9:9~10「娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。あなたの王があなたのところに来る。彼は正しき者であって、勝利を得る者。へりくだって、ろばに乗って来る。雌ろばの子、子ろばに乗って。私はエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ、この方は諸国民に平和を告げる。その支配は海から海へ、大河から地の果てにまで及ぶ」
王には馬がふさわしい乗り物でしょう。しかし、イエスは 誰も乗ったことの無いろばの子に乗ってエルサレムに入られました。人は権力や人気を持つと、人々から持ち上げられ、鼻が高くなって、自分の力・権力を鼓舞したいものです。
* 今の時代で言うなら、オープンカーのパレードに、耕運機に乗ってパレードするようなものかもしれません。
エルサレム入城の聖画をいくつか見たことがありますが、とても格好のいいものとは言えません。群衆の期待を裏切るような入城だったと思います。ろばの子(子供という意味ではなかったかも知れませんが)に大人のイエスが乗って進まれるのは、滑稽でもあります。
しかし!皆さん知ってください。私たちの王は、ろばの子に乗られる王です!
なぜロバの子なのでしょうか。
ゼカリヤ書には、「へりくだって、ろばに乗って来る。」戦車や軍馬や弓による勝利ではないことが語られています。(ゼカリヤ書9:9)
動物のろばが示すものとは何でしょうか。ろばはおおよそ荷物を運ぶ動物として利用されます。黙々と自分の体よりも大きな荷物を背負い、過酷な労働をものともせず、淡々と従順に従います。 ろばが象徴するものは、平和 柔和 従順 愚鈍 があります。
神の前に、従順な僕として、十字架の死に至るまで従順な僕として、私たちひとりひとりにまるでろばのように僕のように仕えられた王がイエスです。王座に座ってふんぞり返って偉そうに命令しているのが世の一般的な王ではないでしょうか。イエスはそのような王ではない。ただ、私たちの、私の、救いの為に、私達が決して罪によって滅びることないために、私たちが永遠の命を持つために、黙々と十字架への道、カルバリの道を進まれた王なのです。
いいですか、皆さん。力・武力による支配は、やがてさらに大きな力によって滅ぼされます。アッシリアをバビロンが、バビロンをペルシャが、ペルシャをギリシアが、ギリシアをローマが滅ぼしました…歴史がそれを証明しています。
私たちの王イエスは「へりくだった王」です。しかし、仕えてくださるお方だからと言って侮ってはなりません。イエスは王だからです。力によって支配する王ではなく、従順な、徹底的に僕として仕えてくださる王なのです。
「あなたがたも知っているように…人の子は、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(マルコ10:42~45全文朗読)
イエスはご自身のご性格について語っておられるところが聖書の中に一か所あります。 クリスチャンの間では有名な聖書のことばの後です。「すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイ11:28)に続く言葉です。何と言われているでしょうか「私は柔和で心のへりくだった者だから、私の軛を負い、私に学びなさい。」「そうすれば魂に休みが得られる。私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからである」(私たちも目指すのは柔和でへりくだった者でありたいです。)イエスは私たちを愛をもって支配される王です。
イエスは極みまでそのご愛を、その生涯を通して示されました。誰が私のために命を捨ててくれるでしょうか。イエスの愛に優る愛はありません。私たちがイエスに従うのは、ただその愛にお応えするからなのです!
喜べ!大いに喜べ!あなたがたの王があなたのところに来る。へりくだって、ろばに乗って来る!
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