7月28日(日)礼拝説教全文
「多くの実を結ぶ」 ヨハネ12:20~26
聖書教会共同訳見出し ギリシア人、イエスに会いに来る イエスを訪ねて来たギリシア人
ユダヤ人にとって出エジプトを記念する過越しの祭りは、最も大きな祭りですから、毎年、この祭りの礼拝に参加するために、多くの離散したユダヤ人たちがエルサレムに上ります。その中には、ユダヤ人ではなく異邦人もいました。(*過越しの祭りとは直接かかわりはありませんが、エジプトからはユダヤ人と共に多くの異邦人も脱出しています。出エジプト記12:37~38)ここでは「何人かのギリシア人」とりありますが、彼らは異邦人でありながら、ユダヤ人の神を信奉する改宗者と言われる人たちです(使徒13:43)。使徒言行録8章にあります、エチオピアの高官も改宗者の一人だと言われています。(聖書では、異邦人がユダヤ教を信奉する者になることを改宗と言い、ユダヤ人がキリスト者になることを回心と言います) ユダヤ人は異邦人を完全に拒絶していたわけではなく、神殿に異邦人の庭がありましたように、異邦人がイスラエルの神を信奉することに門を開いていたことがわかります。
イエスと異邦人との接点はこれまでほとんどありませんでしたが、十字架を目前に、過越しの祭りに参加していたギリシア人が、「イエスにお会いしたい」とイエスの弟子フィリポに願い出たことが記されています。イエスを直接訪ねたのではなく、弟子に取次ぎを求めました。フィリポはそれをアンデレに相談し、二人はそれをイエスに伝えます。フィリポとアンデレは、ユダヤ名ではなく、ギリシア名です。アンデレの兄のシモンは、イエスからペトロというギリシア語の名を授かっています。 フィリポがイエスの許にすぐに行くことなく、アンデレに相談したのは、イエスは、ご自身がユダヤ人に神から遣わされている者であるというお言葉を語っておられたからかも知れません。しかし、彼らはイエスにギリシア人が訪ねて来たことを知らせます。 ギリシア人の訪問がここにありますのは、何気ない出来事のように見えますが、時を認識し、霊的な洞察からこの出来事を考えますと、これは、イエスにとって、重要な転機的なものととらえることができます。
「ギリシア人があなたにお目にかかりたいと言って訪ねて来ています」とイエスに話した時、イエスは「人の子が栄光を受ける時が来た」と言われました。何を直感されたのでしょうか。 ヨハネによる福音書には「時はまだ来ていない」「時が来た」という表現があり、常にイエスのご生涯において「神の時を認識する」表現があります。「人の子が栄光を受ける時」、それは、イエスが十字架で人々の罪を贖う為に、命を捨て、全世界の人々に、罪の赦しと救いの道が開かれる時を指します。救いの時が来たのです。 そう、あのイエスのお言葉「時が来た」は、あの過越しの祭りでギリシア人がイエスを訪ねて来た時に言われたのです。
時はまだ来ていない。時が来た。神のご計画には時があります。全てのわざに時があります(コヘレトの言葉3章) イエスは、神のご計画の時をいつも意識され、そのみこころを行うことに従順であられたお方です。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。」(Ἀμὴν ἀμὴν λέγω ὑμῖν) イエスが 大事な事を言われる前の口癖です。 「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」一粒の麦が 畑に落ちて、死んで、新しい命を豊かに与える。実り豊かに与える。 イエスの十字架の意味を鮮やかに示す言葉であり、人々の心に深く残る言葉です。 イエスがご自身の命を十字架に捨てられて、多くの人々が永遠の命という豊かな実りを得る。イエスは一粒の麦、私達に豊かな命を与える一粒の麦であります。
「多くの実を結ぶ」この言葉は今、ここに実現しています。 イエスという一粒の麦の死は、ユダヤ人だけ、一隅の地域ではなく、世界中にその実が拡がっていきます。ギリシア、ローマ、世界、そして日本へと。 中東の一人のユダヤ人青年の死が、今ここにいる私たちに永遠の命をもたらすとは、何と驚くべき、信じられないような出来事でしょうか。あのカルバリの十字架の血潮、罪の贖いは、今、私たちのもとに届いているのです。
ギリシア人がイエスを訪ねて来た時、イエスは「人の子が栄光を受ける時が来た」と言われ、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」と言われました。 ユダヤ人のためだけではない。ギリシア人の、全ての民の、ここにいる私のために、イエスは十字架で死なれたのです!
こう話されて、次にイエスは私たちに、私たちの行くべき道を語られます。 イエスに従う道は、時に険しく狭くとも、常にイエスの恵みが先行することを忘れてはなりません。あなたの為に わたしの為に一粒の麦となって下さった主イエスを想いましょう。
「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎むものは、それを保って命を得る。 私に仕えようとするものは、私に(私の生き方、私の道に)従って来なさい。 そうすれば、私のいる所に、私に仕える者もいることとなる。 私に仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる」 わたしに仕えたいと思うなら…あなたがたも一粒の麦になりなさい。一粒の麦としての生き方をイエスに学び、イエスと共に歩みなさい。これからのあなたの人生で。 「わたしがいる所に(即ち、十字架の上に)わたしに仕える者もいるべきです。」 同じ場所にいなさい。同じ歩みをしなさい。同じ生き方を選びなさい。 イエスに仕える者は、他の誰がではなく、父なる神がその人に報いて下さいます。
一粒の麦となることは、私たちにとって、他者を生かすために 己に死ぬ人生です。自分を与え続ける人生です。
私にとっては、一粒の麦は 私の弟の事故での死でした。イエスのもとに確かに帰って行った弟を見て、私はイエスを信じることができました。私が牧師としてこのように主の働きを小さくとも成し続けるのは、弟の一粒の麦の死があったからです。あなたの死とは、あなたの生を証しすることです。どのような死の準備をするかというのは、勿論いつまでも健康が支えられることを願いますが、あなたがどう生きたかが、人々に語られる時であることを知ってください。
ギリシア人とイエスの間でどのような話がなされたかは分かりません。しかし、イエスが「時が来た」と言われているように、私たちのイエスに従っていく一度きりの人生にも、時があります。誰かから「あなたの行っている教会に私も行きたいのですが」と言われることもあるかも知れません。イエスのもとに、キリストのからだである教会へ、お取次ぎしましょう。
「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」
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