8月4日(日)礼拝説教全文
「神の栄光」 ヨハネ12:27~36 (第一コリント10;23~11:1)
本日の説教題と同様のテーマが、第一コリント10:23~11:1に記されており、その聖書教会共同訳の見出しに、「すべてを神の栄光のために」とあります。
キリスト者としてどのように新しく生きるべきかが示されています。
コリントの教会では「食べる・食べない」の問題があり、食生活は国や文化・習慣によってかなり異なります。初代の教会の中でユダヤ人と異邦人が共に歩む中で、そのような日常の課題が問題となります。
そのような場合、「自分の利益ではなく、他者の利益を求めなさい。」とパウロは勧めています。 「私は、全ての人が救われるために、自分の利益ではなく、多くの人の利益を求めているのです。」(:33)
「何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」(:31) 「私がキリストに倣う者であるように、あなたがたも私に倣う者となりなさい。」{11:1} 私たちは人生で、どんな選択、発言、行動をし、そして続けることで、神の栄光が現わされるのでしょうか。 それは私たちのあらゆることを通して、私たちが崇めている神がほめたたえられるようになることです。
聖書に記されている「栄光(ドクサ:ギリシア語)GLOLY」の意味には、誉れ、栄え、勝利という意味があります。
値打ちのあるもの、重要なもの、輝かしいことであり、それは神に向かって奉げられる賛美、礼拝、感謝となります。
人間の栄誉とは、 知識、名声、富、功績、国力の隆盛、司祭の式服の栄え、権威者の光栄というものがあります。しかし、それは本来は神から与えられた賜物です。 そしてそれは、外面的な一時的なものであり、やがて衰退していくものです。
神の栄光とは、 イザヤ書6章1~3、エゼキエル書10章、43章 神の栄光は旧約におけるイスラエルの歴史の中では、契約の箱→幕屋→神殿において現され、新約の時代では教会→キリスト者に現されます。それは、神の臨在のしるしであり、神ご自身がその栄光です。そしてそれは、永遠に残るものです。私たちキリスト者は、その内・心に重い神の栄光、宝を持っています。
1、イエスの決意-ゲッセマネの祈りに似ている主のことば 十字架に向かう主イエスの心境(:27)
「今私の心は騒いでいる」
「私の願いではなく、神のみこころに従います」というイエスのことば
「『父よ、この時から(十字架から)わたしをお救いください』と言おうか。否、このために(十字架で命を捨てるために)こそ、わたしはこの時に至ったのである。」
「父よ、御名の栄光を現してください」 ヨハネによる福音書にはゲッセマネの園で主が祈られた記述はありませんが、まさに同じような主イエスの葛藤のことばです・・・「私は心騒ぐ。」
2、イエスの願いに対する父なる神の答え(:28~30)
天からの声「私はすでに栄光を現した、再び栄光を現す」 ここで言われる。「すでに現された神の栄光」とは、ラザロの復活、死者の復活の出来事であり、 「もう一度現される栄光とは」、イエスの十字架の死とイエスが死者から復活される出来事です。 罪の赦し、からだのよみがえり、永遠の命は、神のみが私たちに与える神ご自身の栄光です。
天からの声(父なる神の御声)
1〉バプテスマのヨハネによる主イエスの洗礼の時に「これは私の愛する子。私の心に適う者」(マタイ、マルコ、ルカ)
2〉イエスの変貌の時に「これは私の子、これは私の選んだ者。これに聞け」(マタイ、マルコ、ルカ)
3〉そして、ここでの 父なる神の声(証言)。「私はすでに栄光を現した。再び栄光を現そう。」(ヨハネの福音書のみ 12:28)
人々は、み使いが話しかけたのだ、雷が鳴ったのだ、と言います。確かに人々の耳にもその声は聞こえました。 イエスは言われます「この声が聞こえたのは、あなたがたのためにです。」
3、サタンの縄目から、支配から、神の勝利が人に開かれる時が来た。解放の時が来た(:31) 今こそ、世が裁かれる。今こそ、この世を支配する者(サタン)は追い出される。 十字架と復活による勝利。罪による、人の定めである死に対する勝利 イエスが地上から上げられること(十字架、復活、昇天)は、すべての人をイエスの御許に引き寄せる為です。 イエスはこれらの言葉によって、ご自身がどのような死を遂げられるかを示そうとされました。
イエスの死と復活は神の栄光の時です。
イエスの死と復活は、人が罪と死との縄目から解放される時です。
イエスの死と復活と昇天は、神の国に私たちが引き上げられる為です。
「『人の子』は上げられなければならない。」 この「人の子」とはイエスご自身のことです。メシアが地上に堅固な国を作るのではなく、イエスの死によって、神の国への門を開かれ、私たちを身許に引き寄せる為に、イエスは天に上げられます。
4、光の中を歩きなさい 「光は、今しばらく、あなたがたの間にある。闇に捕らえられることがないように、光のあるうちに歩きなさい。闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」
神の栄光は、天地創造に現されています。空を見上げ、自然を見て、生き物を見て…。 又、病気の癒しや、問題が解決されること、必要が満たされることも神の栄光が現れています。 死人が復活することは大きな神の栄光です。 しかし、それ以上に、ひとりの人が救われることこそ、神の栄光が現される時なのです。 神の栄光とは、十字架による神の購いのわざであり、十字架による人への救いのわざ 罪の赦し 神の栄光とは、キリストの復活であり、人に与えられる復活(よみがえりの命、永遠の命) 永遠の命 です。
イエスが十字架で死んで、復活され、昇天され、別の助け主聖霊を遣わされたのは、私たちが神との交わりを持ち、神と共に歩むためです。(光の中を歩くために。闇の中を歩くのではなく)それがキリスト者の生涯の喜びです。神と共にいつまでも住まうために。
「神に栄光を帰す」という心と行為について イエスがそうであられたように、「何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。」(1コリント10:31)
「父よ、御名の栄光を現してください。」(:28)私たちも心から願い、祈りましょう。
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