8月18日(日)礼拝説教全文

「最後まで愛し通された」 ヨハネ 13:1~20 

(1)極みまで愛された(13:1)

文語訳 「イエスこの世を去りて父に往くべき己が時の来たれるを知り、世に在る己の者を愛して極みまで之を愛し給へり。」 世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された(口語訳) イエスは愛し、彼らを最後まで(この上なく)愛された(詳訳) 愛されたイエスは、その愛を残るところなく(最後まで)示された(新改訳) 愛して、この上なく愛し抜かれた(共同訳) 「愛し、愛された・・・」 愛するが二度続けて語られている箇所となります。  

 過越祭の前(間)に、「この世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟り」(:1)、 過越祭の「夕食のとき・・・ご自分が・・・神のもとに帰ろうとしていることを悟り」(:3)、イエスは「時」が来たことを再び覚えられます。イエスは十字架へ向かうべき時をいつも心に留めておられました。そしていよいよその時が来ようとしています。 

ヨハネによる福音書には、イエスが公生涯に入られて過越しの祭りに上られたことが3度記されています。そして、エルサレムに入られた最後の一週間の出来事(即ち、エルサレム入城、最後の晩餐、ユダの裏切り、十字架)、そして復活については、4つの福音書が揃って多くのスペースを費やして記しています。イエスの生涯において詳細に記すべき最も重要な部分だからです。 4つの福音書のその箇所は、マタイ21-28章、マルコ11-16章、ルカ19-24章、ヨハネ12-20章にあります。最後の一週間と復活の記事は、4つの福音書の合計89章のうち29章を占め、約3分の1の分量となります。 マタイ、マルコ、ルカでは最後の晩餐の席で、「パンとぶどう酒の聖餐」の出来事を記していますが、ヨハネにはその記事はなく、その代わりに「洗足」の出来事と告別の「説教」について記されています。ヨハネは最後の晩餐で聞いた、イエスの大事な告別説教を詳細に記しています。 (:2)

夕食のとき(過越祭の夕食、最後の晩餐のとき) ヨハネは、イエスが最後の晩餐の席でこれが最後の夕食になることを知られたこと、又、弟子のユダの裏切り(:2)(:11)(:18)(:21-30…次回)について記しています。十字架への序章となります。 

イエスが「極みまで愛し、愛された」その愛の対象である弟子たちは、ユダもペテロも含めた全ての弟子たちです。ご自身を裏切る者も、ご自身を否定する者も、ご自身の元から逃げ去る者たちのことも、全てをご存じで、その者たちを極みまで愛し、愛し通されたのです。 マタイ、マルコ、ルカは、十字架の死の直前となる最後の晩餐の席で、十字架の意味を聖餐をもって表していますが、ヨハネは十字架の意味をイエスによる弟子たちの洗足をもって表します。イエスが弟子達に悟ってもらいたいと願っておられることは、これからご自身が捕らえられ、十字架に向かわれる十字架の意味についてです。 

 (2)イエス弟子たちの足を洗う(:4~11)

 弟子達の足を洗い始められた事が詳細に表現されています。目撃者の、その場にいたヨハネの証言です。 「席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰に巻き、たらいに水を汲んで」(:4~5) ユダヤには、足を洗う習慣がありました。当時の履物はサンダルで、乾燥した(井戸で水を飲む)地域でした。奴隷(しもべ)の仕事として、汚れた足を洗うという事がありました。ユダヤ人のしもべであってもこの役割は嫌われる仕事でした。誰が偉いかと言い合っていたイエスの弟子たちのことを考えると、誰も足を洗わないでその席に着いていたのかも知れません。 最後の晩餐は、床に座って食事をする部屋で行われました。椅子の習慣はありません。汚れた足のままで食事をするのは不衛生なことでもあります。 

イエスが次々に、弟子たちの足を洗われます。 ペトロの順番になります。ペトロは「主よ、私の足を洗って下さるのですか。」「私の足など、決して洗わないでください」とイエスに言っています。 「後で分かるようになる」(:7)イエスの言われる後で分かるようになるとは、何が分かるのでしょうか。イエスの十字架の意味です。 「もし私があなたを洗わないなら、あなたと私は何の関わりもなくなる」(:8) イエスは、私とあなたの関わりは、私があなたの足を洗うことだと言われています。私があなたの足を洗わなければ、私とあなたは何の関係もないと言っておられます。 

 「足を洗う」「足を洗っていただく」とはどんな意味なのでしょう。イエスが私の汚れを洗ってくださるという意味です。十字架の上で愛する者の汚れを洗う。罪・汚れを洗い流す。それがイエスと私の関わりです。 「私の足を洗わないで下さい」。イエスは私たちを極みまで愛し、しもべとなって十字架の上でご自身の血を流し、私達の罪・汚れを洗い流して下さるお方です。「私の足を洗わないで下さい。」私があなたの足を洗うのでなければ、あなたは私と何の関わりもなくなります。  「イエスよ、私の足を洗って下さい。」イエスの十字架による罪の赦しを、イエスの奉仕を心から受け入れてください。私とイエスとの関わり、接点は、足を洗うお方と、足を洗っていただく私との関係です。 

ペトロらしいというか、彼は時にちくはぐな言動をします。 「あなたとの関わり」がもっと深くなるようにという意味でしょうか、ペトロは「主よ、足だけでなく、手も頭も(洗ってください)」とイエスに言います。 もちろん、汚れた足以外を洗う必要はありません。 しかし、ここでもペトロのちぐはぐな言葉に関して、イエスは「あなたがたは清いが、皆がそうではない」と、これからイエスを裏切ろうとするユダについて言われます。しかし、知っていただきたいのは、イエスはユダの足も洗われた、ということです。 

 (3)互いに足を洗い合いなさい(:13-17) 

イエスに足を洗っていただいた者は、師であるイエスに倣い、他者の足を洗う生き方をします。それは、時に心地よい、やりがいのある働きであるとは感じないかも知れない。しかし、喜んで他者の足を洗う生き方をしたい。それは、私がイエスに足を洗っていただいた者だからです。 私たちが隣人の足を洗う動機は、その生き方に進むのは、イエスに足を洗っていただいたからです。師であるイエスがしもべとして足を洗ってくださって手本を示して下さったからです。

・・・私たちもキリストのしもべとして他者に仕えていく生き方を、キリストに倣う者として歩みたい。 洗足の記事を読んで、イエスが私たちを愛して下さったのであるから・・・それを喜び・動機として、私たちも互いに愛し合う者でありたい。 私たちが隣人の足を洗うという生涯は、まず私たちが足を洗っていただく。十分に愛していただく。その十二分な主の奉仕を、十字架の贖いの奉仕を十分に、たっぷりと受ける事から始まります。 

 他者の足を洗うとは・・・どのような生き方でしょうか。具体的に。奥さんの、主人の、子供の、父母・親の、兄弟の、職場の、学校の友人の、教会の兄弟姉妹の、全ての人に対して・・・。 具体的にどのような生き方なのでしょうか。 

ピリピ2:3-5 しもべの心。へりくだった心をもって互いに人を自分よりすぐれた者としなさい。 

竹田広志's Ownd

千葉県八千代市勝田台7-27-11 電話 0474-84-5045 牧師 竹田広志

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