8月25日(日)礼拝説教全文

「裏切る者をも愛し」  ヨハネ13:21~30、:36~38 

― イエスの弟子のイスカリオテのユダについて考える ― 

先週の礼拝では、最後の夕食(晩餐)の席で、イエスが弟子たちの足を洗う「洗足」の記事を読みました。 人に仕えること、互いに愛し合うこと、イエスの日頃の教え通りの行為がこの「洗足」に表れています。「手本を示したのだ、私に倣う者となりなさい。」 

イエスがご自身の使命を果たすべき時、十字架の時を覚えて、その生涯を歩まれる中、度々ユダの裏切り(:2)(:11)が、見え隠れしています。十字架への時が近づいています。そしてついに弟子のユダが行動を開始します。 イエスが捕らえられ、十字架へ引いて行かれたのは、当時のユダヤの宗教的指導者、パリサイ派の人々、律法学者、そして祭司たちによってでした。彼らは治安という名目で(実は彼らの保身と、妬みの為でした)、当時のローマの総督ピラトを動かしたのでした。しかし、ここに至るまでにイエスを捕らえる機会は何度もありました。ところで、聖書は、イエスが捕らえられた決定的な出来事は、イエスの弟子の一人の裏切りであると記しています。それは、イエスがお選びになった十二弟子の一人、イスカリオテのユダです。 「私のパンを食べている者が、私を足蹴にした」(:18)詩篇41:10にある預言が成就します。 イスカリオテとは名前ではなく、地名・カリオテ出身の、という意味です。また彼はイエス一行の会計係(12:6、13:29)をしていて、イエスと弟子たちに信頼され、財布を任されていた人物であります。 

ユダの裏切りの原因 1) 金に目がくらみ、イエスを裏切った→ お金の魔力が人を狂わします。 2) イエスが王になることを信じていたのに、そうでないことを知り、失望した→ 時に人の思想や、信念、理想、世論が人を狂わします。 

3) 彼の中に悪魔が入った。神が予定されていたことであった(:27)→ 時に闇の力に支配され、自分では抗えない、どうすることもできないことがあります。 

4) マリアの香油注ぎで、自分の意見がイエスに認められず恥をかいた→ 時に小さなことに人はつまずきます。

 ユダは裏切り者の代名詞のように、聖書の中に記されています。 「ユダは盗人であった・・・」(12:6)、「そのうちのひとりは悪魔です」(6:70~71) 聖書の中で、ユダに関する記事は、情状酌量の余地を残さずに、徹底的な悪として書かれていますが、反面、イエスを十字架へ道案内をしたのはユダでもあります。 しかし、他の弟子たちも変わりはありません。イエスを裏切ったのは、最後まで付いて行くことができなかったのは、全ての弟子たちです。 

 最後の夕食の席で、イエスははっきりと言われます「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちの一人が、私を裏切ります。」(:21) このことばは、食事の席で、弟子たちに衝撃的な言葉であったでしょう。お互いに顔を見合わせます。イエスの言葉で一瞬にして彼らの間に緊張が拡がったことでしょう。イエスの十字架への予告は、これまでも弟子たちに度々あったので、弟子たちも不安であったと想像します。しかし、その直接的な原因が、自分たちの仲間から裏切り者が出るという驚くべき言葉であったのです。 「誰が、主を裏切るのか?」当惑でいっぱいになっている弟子たち(:22~24) [私の言葉に動揺してはならない。そのことが起こったときに、まさに聖書に預言されているのが私であることを、あなたがたが知るのです」(:18~19)とイエスは言われています。 その決定的な内容を弟子たちに告げる時「霊の激動を感じ、証しして言われた」とあります(:21)。このことばから、この出来事が、これから起こる出来事が、どんなにイエスの心を動かしていたかが解ります。 それは、3年間弟子として選び、共に歩んできた弟子たちへの思い、愛するユダへの思いであります。 

この言葉に身に覚えのあるのはユダだけです。夕食の前にユダは金を受け取っていました。(マタイ26:14~16) ここでイエスはユダに最後の愛を示されます。 パンをぶどう酒で浸し、ユダに渡されます。(:26) イエスのこの行為は、「ユダよ、あなたの為にも私は命を捨てます」、そして、「あなたはわたしの生涯の友だ」という親愛の行為です。しかしユダは、その後、間もなく、イエスに接吻という親愛のしるしをもってそれに応えます。それは「死の接吻」と呼ばれます。 ユダは後に、後悔して銀貨30枚を神殿に投げ込んで、首を吊って死にます。(マタイ27:3~10)

 ペトロもイエスを3度「知らない」、とイエスを否定します。(:36~38) ペトロの離反についてのイエスの予告は、4つの福音書に記されています。 ペトロにとっては不名誉な、黙っていれば誰にも知られないことではありますが、4つの福音書に詳細に書かれていますのは、おそらく、ペトロが人々に何度もこの「証し」をしたからだと思います。 彼は「私は命を捨てて、あなたについて行きます」とイエスに大胆に、力強く言いました。彼の本心だったと思います。しかし、人の心は弱いものです。彼の心の中に、恐れが入り込みました。師であるイエスへの熱い思いが「恐れ」によって締め出されてしまいました。 ルカによる福音書にだけ、ペトロに対して次のようなイエスのとりなしの言葉があります。「私はあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。だから、あなたが立ち直った時には、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22:32) ペトロはイエスの予告された通りに、鶏が二度泣く前に三度イエスを否んで、大祭司の庭から走り出て大泣きします。(マタイ26:69~75) 

新聖歌221番 「ああ主の瞳」

 ペトロも、ユダも自分のしたことを心から悔いました。ユダは悔いて自分の命を絶っています。ユダも悔い改めて、イエスの元に戻って来れたかも知れない。しかし、自分がしてしまった事の重大さに、「もう戻れない」「取り返しがつかない」と思ったのでしょう。イエスの「最後まで愛し通される愛」のうちにとどまり続けられなかったのです。 イエスはユダを赦されなかったでしょうか? ヨハネは、ユダの行為は赦されないものであるかのように断罪していますが、イエスはそうでしょうか。 「右の頬を打たれたら、左の頬を出しなさい。」「迫害する者の為に祈りなさい。」「7度を70倍するまでに赦しなさい。」と言われた、イエスの言葉を、ユダは思い起こせなかったのでしょうか。 あなたは思い起こせないのでしょうか。 赦されない罪はありません。イエスは悔い改める者の全ての罪を赦し、罪を犯す前と変わらず愛してくださいます。 私達は 自分のみじめさ、足りなさ、弱さ、不信仰、欲深さを知ります。しかし、だからといってイエスは見捨てることはなさいません。イエスの愛のうちにとどまり続けなさい。 過去のあやまち、失敗で、自分で自分を見捨ててはなりません。やり直せない人生は、イエスの前にはありません。イエスの極みまで愛して下さる愛のうちにとどまり続けてください。 

 * 聖餐式でパンを食べなかった青年のあかし 

竹田広志's Ownd

千葉県八千代市勝田台7-27-11 電話 0474-84-5045 牧師 竹田広志

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