9月1日(日)礼拝説教全文
「新しい戒め」 ヨハネ13:31~35
最後の晩餐の席で 十二弟子のひとり、イスカリオテのユダが、銀貨30枚を受け取り、イエスを引き渡すために部屋を出て行きます(:30)。その時、「人の子が栄光を受ける時が来た」とイエスは再び宣言されます。そして、十字架に向う決定的なカウントダウンが始まります。 「人の子の栄光」とは、イエスの十字架と復活によって、全ての人が罪の赦しと永遠の命を受ける道、救いの道が開かれることです。それは、神のご計画が成就する最も麗しい栄光の時です。 「私が行く所にあなたがたは来ることができない。」その所とは、父なる神の御許であり、又、十字架の道です。
弟子たちの洗足、パンとぶどう酒を受けたユダの裏切り、ペテロの裏切りの予告、このような夕食の席で、イエスは弟子たち言われます。「あなたがたに新しい戒めを与える。」(:34)
イエスはどんな戒めを弟子たちに教えられたのでしょうか。最後の夕食でのイエスの教えの総決算となります。
聖書の中には多くの戒めがあります。聖書の戒めの数は十戒をはじめ、その律法にはユダヤ経典トーラー603とも言われます。ユダヤ人は旧約の律法を厳格に守る人々です。しかし、イエスの教えと行動は、時に律法(戒め)に反している、守られていない、と誤解される内容でした。 イエスがここで弟子たちに言われる大事な「新しい戒め」とは、どのような新しさなのでしょうか。
イエスは、律法の専門家からの質問、「律法の中で一番大事な戒めは何ですか。」(マタイ22:34~40 マルコ12:28~34 ルカ10:25~28)と問われたことがあります。「神を、全てを尽くして愛すること、又同じように自分を愛するように隣人を愛すること。これよりも大事な戒めはない。」と言われました。「神を愛すること。隣人を愛すること。」多くある戒めの中で、「愛すること」を重要だと教えられました。 神を愛し、隣人を愛する、この二つの戒めに「律法全体と預言者(旧約聖書)」とがかかっています。それが律法の全てを網羅しています。
新しい戒めとは何でしょうか。「互いに愛し合いなさい」とイエスは言われます。この言葉はやがて、弟子ヨハネのライフメッセージとなります。「互いに愛し合う」ことは昔から聞いている戒めです。そして、最も大事な戒めです。しかし、さらに、ここにイエスは、その生涯を通して弟子たちに証しされた「新しさ」を加えます。
「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」 イエスがこのように宣言されるまで、この戒め自体がありませんし、もちろん、それに生きようとした者もいません。旧約聖書と新約聖書を二分する全く新しい戒めです。イエスを見て、よく見て、イエスから目を離さないで、「イエスが愛したように、互いに愛し合う」という戒めなのです。 「互いに愛し合う」という言葉は、多くの宗教や教えの中にあることと思います。しかし、「イエスが愛したように互いに愛し合う」はキリスト者のものです。
クリスチャンであるしるしは、洗礼を受けること、礼拝をささげること、みことばを聞くこと、祈りをささげること、奉仕をすること、献金をすること、宣教をすることでもありますが、キリストが私を愛して下さったように隣人を愛する。これに優るしるしはありません。イエスの弟子は、イエスのように生きます。
「私はキリストの弟子です。イエスの教えに従っているクリスチャンです。」と言うのであれば、イエスが愛したように互いに愛し合っているかどうかを、自らの歩みを今日、確認してみるべきです。もしあなたがたの間に、イエスが愛したように、互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがイエスの弟子であることを、あなたの家族が、あなたの周りにいる人たちが、全ての人が、あなたをキリストの弟子だと認めます。
3回に分けてヨハネ13章を読んで来ましたが、「ご自分の者たち(弟子たち)を愛して、最後まで愛し抜かれた」その様子を「洗足」と「弟子たちがイエスに付いて行けないことをご存じで、尚、愛して下さるイエス」をみてきました。
パウロは、イエスの教えを短い言葉で、「受けるより与える方が幸いである」とまとめました。(使徒20:35)それはイエスが示された愛し方です。 私達の人生で大事なのは、何を得たかではなく、何を与えたかです。 他者に喜んで自分を与えること。財であったり(施し)、時間であったり(祈り)、励ましであったり、知恵であったり、そして自己犠牲(消極的と思われますが)、「自分の命をその友のために捨てること」、それが最も大きな愛だとイエスは言われました。(ヨハネ15:13) 十字架の愛とは、自分の命を与える愛――与える愛です。 病める者、悩む者、弱っている者、助けを必要としている者、最も小さな者に、あなたの持っているものを分け与えることです。(マタイ25:35~46) 空腹のとき食べ物を与え、渇いていたとき飲ませ、旅人であったとき宿を貸し、裸のとき着るものを与え、病気をしたとき見舞い、牢にいたとき訪ねることです。
* 日系ブラジル人の赤木さんの証し 「イエスの願いのひとつでも応えていることを実感します」
あわれみを閉じてはならない存在を、聖書は、「親のない子供、身寄りのないやもめ、寄留の他国人、貧しい者」と定めています。(ゼカリヤ7:10 出エジプト22:21~22 申命記24:17 詩篇146:9) もう一度、自らのキリスト者の人生の在り方について、私たちは考えるべきです。
最後の夕食の席で示された、又、十字架で示されたイエスの愛は、赦すこと(受け入れること)です。 十字架の愛は――赦す愛です。 私たちが、互いの罪を赦し合うことができたならば、争いは止まります。 違いを受け入れ合えない、自分に負わされた被害を赦せない。復讐に復讐を重ねて滅んでいく。それが人の歴史です。国と国の戦争に限らず、身の回りにも起こります。
「互いに与え合いなさい」「互いに赦し合いなさい」イエスは十字架においてその愛を示されました。
最後に「互いに」という内容です。
イエスの愛で「互いに愛し合う」という戒めは、イエスを知らない人との間には成立しません。特にヨハネが手紙の中で「互いに愛し合う」と強調しているのは、教会の中における「兄弟愛」について語っています。
招詞でヨハネの手紙を読みましたが、「『神を愛している』と言いながらきょうだいを憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見えるきょうだいを愛さない者は、目に見えない神を愛することができないからです。」(第一ヨハネ4:20)
教会は「イエスが愛したように、互いに愛し合う」交わりの場です。教会の礼拝に集う人々は、イエスの前に、まさにこの最後の晩餐に招かれている弟子たちです。ここにいる私たちに、「私の弟子たちよ、私の者たちよ。私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」と言われるのです。
イエスの愛で互いに愛し合えるのは、キリストにある兄弟姉妹だけです。教会の兄弟姉妹を愛することは、世に対しての大きな証しです。
教会を建て上げることのひとつの側面は、イエスの愛で互いに愛し合い、兄弟姉妹の間に築かれる、目に見える神の家族の愛の建設なのです。
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