9月8日(日)礼拝説教全文

「天国へのたった一つの道」  ヨハネ14:1~6 

私たちの人生には終わりがあります。必ず死による終わりを迎えます。 ヨハネ14章1~6節は、よくキリスト教の葬儀で朗読されます。 キリスト教の葬儀は、召天された者を、神に委ね、迎え入れて下さる神を礼拝する時であり、地上に残されて悲しみの中にある人々に、神の慰めを渡すことです。そして、もうひとつ意味があります。それは、自らの死を思い、やがて私にもその時は来るのだと、しっかりと神の救いの中に身を置く備えを覚える時です。 

 ヨハネによる福音書14~16章は、最後の晩餐の席での、イエスの告別説教となります。これは山上の説教に続く最も長いイエスの説教です。そして続く17章は、最後のイエスの弟子たちへのとりなしの祈りの言葉となります。 

イエスが食事の席で弟子たちの裏切りを予告され、彼らが互いに疑心暗鬼に顔を見合わせる中、一番弟子のペトロが「私は絶対にあなたを裏切らない、命がけであなたについて行く」と言いますが、「あなたは私を三度、私の弟子であることを否む」とイエスから予告されます。弟子たち全員に不安が拡がったでしょう。 

(私がいなくなることで)「心を騒がせてはならない」とイエスは言われます。イエスはこれから捕らえられ、十字架に架けられ、死んで葬られ、復活され、父の御許へ行かれます。これから起こることです。弟子たちは大きな衝撃を受け、絶望し、不安と恐れに包まれる事でしょう。彼らに「神を信じ、また私を信じなさい。」「信仰を持ち続けなさい。」「信じ続けなさい。」とイエスは言われます。 私たちの人生に波風が打ち付け、恐れに囲まれるような時、「心を騒がせるな。神を信じ、また私を信じなさい」というイエスの力ある無二の言葉を聞きましょう。

 イエスが十字架で死んで、復活され、この地を去って、彼らのもとから目に見えなくなります。心が騒がないはずがありません。 イエスは愛する弟子たちのもとを去り、父のもとへ行かれる目的を語られます。 

「私の父の家には、住まいがたくさんある。あなたがたのために場所を用意しに行くのだ。」「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたを私のもとに迎える。私のいる所に、あなたがたもいることになる。」 必ず、あなたがたの場所を備えて、必ず迎えに来ます。「私のいる所へ迎えます」と言われるのです。 あなたの場所は用意されています。用意して下さるのはイエスです。 このようにあなたに言って下さるのはイエスだけです。このような言葉は他にありません。まことにこの方こそ、全ての人の救い主・キリスト、私たちの救い主です。 

「わたしが天国に住まいを、あなたがたのために用意する。」誰がこのように言う者がいるでしょうか。歴史の中にいますか?あなたの周りにいますか? 以前にも言いましたが、このような言葉を語る者は、大ウソつきのペテン師か、誇大妄想狂か、本物の救い主だけです。イエスは誰でしょうか。

 「わたしの行く道はあなたがたも知っています。」 それを聞いて弟子のトマスが言います「主よ、どこへ行かれるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道がわかるでしょう。」イエスは「その道をあなたがたは知っている」と言われますが、どのようにしてその道を知ることができるのでしょうか。その場所までどうやってたどりつけるのでしょうか。 

 「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない。」 「エゴー・エイミー」(「私は・・・ある」)神の力強い自己宣言の言葉です。神ご自身がご自身に誓って(神以上に誓いとするものはありません)言われる言葉です。 歴史の中には 道を語り、道を示した多くの宗教家、哲学者、指導者達もいました。 しかし、イエスは、「私が道である。」と言われました。 日本において「分け登る麓の道は多けれど 同じ高嶺の月を見るかな」というお坊さん一休の道歌(教えの歌)があります。日本的な宗教観を現している言葉であると思います。しかし、イエスの言葉は、他に道はないと言われます。 八百万の神観にあっては、排他的で、我にしか真理はないという言葉は、傲慢だと非難されるかも知れません。しかし、イエスの言葉は、譲歩することも擦り合わせることもできません。 「イエスは道である」 イエスという道を通らずに、誰一人、誰一人、イエスの用意されている御国に行くことは出来ない、というのが、神の御子として宣言されるイエスの言葉です。

 使徒言行録では、イエスを信じる者がクリスチャンと呼ばれる(使徒11:26)以前、「この道の者」と呼ばれていました。(使徒言行録9:2) 小林和夫先生は、「聖書学院は学校ではなく、道場だ。」「あなたたちは神学生ではなく修養生だ。」「学ぶのはキリスト教ではなく、キリスト道である」とよく言われていました。 頭で知ることより、体得して生きることこそ、キリストという道を歩くことです。 

 「イエスは真理である」 イエスによって明らかにされ、イエスを信じることによって得る、体験、経験できる真理です。神がおられることも真理です。そして、「イエス・キリストは昨日も今日も、また永遠に変わることのない方です。」(ヘブル13:8) 

 「イエスは命である」 自らの死を思い、命の源であるイエスに、生ける神に思いを向けましょう。命は人の手の中にはなく、神の御手の中にあります。神が命の木の実を守られます。人の手には任せられないで、渡されません。 「命と死」「祝福とのろい」。命は神との交わり、祝福であり、死は神との断絶、神ののろいです。 「いずれかを人は選ばなければなりません」(申命記30:19~20)

 イエスを信じ、イエスから目を離さないで、イエスに従い続けていくことこそが、父の家、天の御国に至る唯一の道です。「イエスを通してでなければ」どんな修行も、律法を守ることも、いかなる神々への信心も、正しく生きようとしても、善に励んでも、おだやかに幸せに寿命を全うしても、誰一人、決して、父のみもとには行けません。天国へは行けません。 イエスが命をかけて、あなたの救いの為に、尊いご自身の命の代価を支払って開いて下さった道です。イエスの十字架の贖いを、そのまま信じるだけで、あなたは救われるのです。何かをしなければという能力や持ち物によるのではありません。血筋や資格にもよりません。全ての人に対して、信仰によって救いの門は開かれています。 

「私が道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない」 「私は門である。私を通って入る者は救われます。」(ヨハネ10:9) 

竹田広志's Ownd

千葉県八千代市勝田台7-27-11 電話 0474-84-5045 牧師 竹田広志

0コメント

  • 1000 / 1000