1月12日(日) 礼拝説教要約
「イエスを知っているすばらしさ」 ピリピ3:1~9
パウロの記したピリピ人への手紙は、ローマの獄中で書いた「獄中書簡」と呼ばれるものであるが、一方内容としては「喜びの手紙」と呼ばれる。
獄中と、喜びは、まるで正反対のようなものではあるが、「その喜び」は、獄中にあっても変わることのないものといえる。(1:4,18,18,25,2:2,17,17,18,18,28,29,3:1,4:1,4,4,10)16回、喜び(カラ)という言葉。ギリシャ語の聖書で数えてみた。
その喜びとは、本日の説教題、中心テーマ。イエスを知っている喜び。イエスが救ってくださった喜び。イエスが共にいてくださる喜び。総じて「主にある喜び」。そして、どんな環境も、試練もその喜びを奪うものは何一つない。そして、イエスを知ったピリピのキリスト者に対しては、「いつも主にあって喜びなさい」と繰り返している。
口語訳聖書では、『わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている』
私たちが自分の人生で得るものは多くあるが、何が私の人生において素晴らしい、価値あるものなのか立ち止まって考えてみたい。
勝田台教会の元旦礼拝では「わたしたちはキリストの使節なのです」と一年の役職と指針を頂いた。使節(アンバサダー)は、親善大使、広報大使に使用する事が多い。キリストを知らない日本人(日本人だけではないが)に、神の国を宣べ伝える大使・使節である。その使節の働き、奉仕は様々であるが、大事なのは、宣べ伝える者が、宣べ伝えられるその国、そのお方のすばらしさを良く知っている事である。良く知らなければ、正しくも、熱心にも伝えることはできない。
例えば、キリストの愛の大きさを伝える為には、私がその愛の大きさを知っていなければならない。
使節として任命されたあなたはキリストをどれくらい知っているか。言葉を変えるならば、イエスとどれくらい親しいのか?
(イエス・キリストを)「知る(ギノーセオース)」の意味は、知識として知るを越えて、交わり(コイノニア)の中で、言葉を交わし、共に歩み、働き、暮らす中で、人格的に相手を知る。経験・体験によって知る事を意味する。キリストを受け入れて繋がっている、ひとつとなることを目指す意味がある。夫が妻を知るとか、長年の付き合いの中で人格的に人を知る時に使う。生きた親しさ。絆。長年のパトナー。(イエスと私達の関係が 花婿と花嫁とたとえられることも聖書の中にも多い)。
みことばに聴く、祈り、賛美、感謝、奉仕、礼拝をささげる事。全てはキリストとの交わりなのである事を自覚したい。聖書を通して、私たちはキリストを知り、神を知り、聖霊を知る。イエスに誰よりも愛される私(妻・夫・親よりも)である事を知り、私は誰よりも、何よりも(家族やお金や仕事よりも)イエスを愛している事を知る。
ユダヤ人のアイデンティティー(ユダヤ人がユダヤ人たること)は、律法・割礼・神殿礼拝である。パウロはこれを一心に求め、誇りとしてきた。しかし、命がけで大事にしてきたこれらのものが、イエスを得た今は、一瞬にしてそのすばらしさはかすみ、返ってそれらが損と思うようになり、「キリストのために全てのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています(:8)」と述べている。そこまでに、彼はイエスを知っていたのである。
イエスを知れば知るほど、今まで素晴らしいと思っていた世の富・栄えがかすんでくるのである。
私たちはどれくらい主イエスを知っているのだろうか。
なお深く主を、なお深く主を(新聖歌344)。知る。そして、主の素晴らしさを宣べ伝える キリストの使節でありたい。 「キリストの使節として、尚、深く主を知る者」
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