2月23日(日)礼拝説教要約
「誰が罪を赦すことができるか」 マルコ2:1~12
(マタイ9:2~7、ルカ5:18~25)
1、彼らの信仰を見て
イエスの話しを聞こうと、戸口のところまで隙間のない程に人が押し寄せていた。四人の人が中風の人をかついて(担架の様に)イエスのもとに連れて来た。人が多くて近づけず、屋根をはがして、イエスの前につり下ろした。
ここで注目するのは『イエスは彼らの信仰を見て』ということば。中風の者と4人の友。イエスの見られた『彼らの信仰』とは何か。何とかしてイエスのもとに連れて行きたいという4人の友人の思い。
信仰とは、イエスに求めること。イエスに期待すること。イエスに求めているか?
信仰とは、あきらめないこと。受けるまでイエスに求めること。人ごみに阻まれて、諦めてしまったわけではない。
信仰とは、時には大胆に求めること。屋根にのぼり屋根を剥いで天井から吊り降ろした。
信仰とは、イエスに求める者の一致と結束。
ひとりでは開かない門、進まない道。そんな時、信仰の友の助けはどんなに大きいことであろうか。
2、罪を赦す権威を持つイエス
イエスは中風の人に向かって、病の癒しのことばでなく、『子よ。あなたの罪は赦されました』と言われた。中風の人が何か罪を犯して、このような病気になったと言われたのか。否、そうではない。病に苦しまなければならない人の定め、罪ある人の定めに対して、罪の赦しを宣言されたのである。イエスに求める者に、イエスは罪の赦しを与えて下さる。
当時の宗教的指導者はイエスを非難した。『神おひとりのほか、誰が罪を赦すことができよう』。彼らの心のつぶやきの通り、罪を赦す権威を持つのは、神だけである。そう、事実イエスは、罪を赦す権威を持つ神の御子である。
イエスは罪を赦す権威を持っている事を示す為に、『起きて、床をたたんで、家に帰りなさい(歩け)』と言われた。彼は起き上がり、すぐに床を取り上げ、皆の見ている前を出て行った。
私達は自分の罪を赦せない。他者の罪を赦せない。他者が赦してくれても、償いを終えたとしても、家族や隣人への罪の影響は計り知れない。人は人の罪を赦せない。罪責から逃れる道は、同じ罪ある人の世界にはない。
罪を赦すことのできるお方は神のみである。神が赦された罪を、自分も他者も誰も罰することはできない。
十字架の前に、自分の罪を悔い改め、『子よ、あなたの罪は赦された』と、罪を赦す権威を持つイエスの宣言を受けて欲しい。
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